生ネギまの議題を検討する その二(ネギのお茶会ルポ 続き)

タイトルを少し修正してみる。前回まで、「ネギのお茶会 ルポ」と題して書いていたのだけれども、はたと気付いた。
これ、ルポじゃない。w
どうしても自分の考えを交えないと書けない性格(というか、正確に情報を伝達するという行為そのものが苦手)なので、知らない内に、変な事ばかり書いていた。
とは言え、途中で投げ出すのも嫌なので、もう少し続けてみる。

  • 前提をもう少し整理する

まず、前回までに確認した事。
お茶会内の「朝まで生ネギま」という討論会で出た議題は、結局「OADの売り上げ数を伸ばす為の、最適な今後のネギまの方向性を探る」というものだった。
そこで、一般のファン層も含めたネギまの傾向を検討した結果出てきたのが、「萌えとバトルのバランス」「より濃い情報量の提示」というものが、全てのファンに普遍的に求められているのではないか、という事。
うわ、内容薄っ! 
ここまでたどり着くのに、どれだけの文字を費やした事か。ただ、これらが案外忘れられているので、それほど無駄では無いとも思っているのだけれども。

  • バトルとスピード

で、方向性の検討に入りたいのだが、やっぱり、もう少し前提を整理したい。(まだやるか)
というか、この手の検討は、状況確認さえ出来ればおのずとその方向性が見えてくるものだから、そこが明確になれば充分とも言える。
まず確認したいのは、ネギまのスピード感。
赤松健の作品において、結構重要視されるのが時間経過の管理だろう。前作「ラブひな」では、リアルタイムと同じ時間経過を約束付け、速い展開としてのスピード感があった。
対してネギまは「ネギの教職期間を描く事」を意識しているようだ。つまり、「漫画時間内の」ほぼ1年間の教師生活をどう描くか、という制約か課せられている。これは、ややもすると連載を長くする為に内容も引き伸ばす必要があるような制約だが、そこに中身が無ければ空疎となる。ネギまはこの制約によって、逆により多くの「濃い情報」を立て続けに入れる必要が生じ、「無駄な時間が無い」という感覚を生じさせ、「物語的なスピード感」が出てきている。
しかし、その「濃い情報」というネギまの魅力に代替できる要素が「バトル」だ。「エロと暴力は漫画の華」と言う様に(言うのか?)、バトルシーンはそれだけで読者を惹き付ける。バトルシーンを書くのは、手を抜きやすいらしく、赤松健もその利点をかなり意識しているようだ。(最近の日記にも出てきているw)これは、赤松健が提示した「減ページか休載か」という問題の基本にある、最近の生産量の低下(?)をある程度改善出来るものだろう。
ただ、これを推し進めてしまうと、ネギま本来の魅力「高濃度情報量」が消えてしまう。「一年間バトってただけなの?」とかになってしまう。バトルシーンは、一見そのシーンだけを見るとスピード感があり、その為もあって読者を惹き付けるのだが、「物語的なスピード」としては逆に停滞してしまうのだ。
ネギまにおいてのバトルは、提示された多くの情報が、上手く活用されるのを確認する「ご褒美」のシーンとなるのが良いだろう。しかし、そのご褒美だけを提示し続けていたら、それは「ネギま」ではない。単純なバトル漫画ならば他にいくらでもあるのだ。バトルをやるにしても、同時に情報を重ねていくなどのテクニックによって「物語的なスピード感」を維持する事こそが「ネギま」に求められる事だろう。

  • 萌えと世間と

さきほど「エロと暴力は漫画の華」と言う格言(?)を出したので、ついでにネギまの「エロ」についても語っておこう。
ネギまのエロは「萌え」として表現される部分だろう。つまり「パンチラ」とか「裸シーン」とか。
ネギまがここまで大きくなった原因の一つにはやはりこの「萌え」がある。つまり世間の「萌えブーム」に乗ったという事実だ。これは、赤松健がまだ大学生の頃、セーラームーンにはまっていた(実際には水野亜美)、という事が実に象徴的だ。萌えの起源の一人として土萌ほたるが居るように、この「萌え文化」の発展と共に赤松健も発展してきたのだ。
しかし、どうやらただ単純に疑問も無く拡大を続けてきた「萌え文化」も、この所大きなターニングポイントを迎えているようだ。というのも、この萌え文化を支えてきた「オタク文化」が発展の頂点を越えたように思うから。
ここで、一寸簡単に「オタク文化」について語りたい。

私は結局「オタク文化」とは「萌え文化」だと思っている。オタクとはつまり萌えオタが基本だと。「萌え」とは何か。それは単純に言うと「デザインに性的に欲情する事」。本来、春画、エロ漫画とかは画を通して現実の異性を想像し欲情する物。しかし何時かそのデザインそのモノに欲情出来る者が現れた。これは、実は実際の異性を見ていないという点で獣姦に等しいタブーとも言えるのだが、日本の漫画文化の熟成がそれを可能にした。(手塚治虫の功罪か)しかし、傍から見て、実物を想像して欲情するのか、デザインに欲情するのかは区別が付かないので、それに誰も気付けなかった。その異質さに気付かれ、特別な名称を付けられた者達が原初の「おたく」。そして、その異質な感覚だけを取り出して言葉にしたのが「萌え」だ。その「萌え」を含んだ文化は、性欲という本能を含むからこそ巨大化し、それを正当化しようする動きの結果が「オタク文化」と言える。しかし、オタク文化は世間が無視できないほどに巨大化し、その為に今まで隠されてきた異質さに世間も気付き始めた。世間で「二次元規制」とかの声が出るのも、本能的にこの異質さに気付いているからだ。「萌え」は異質なもの。それを世間がどう受け止めるのかが今後のオタク文化の生き残りにも影響してくるだろう。

今「萌え」には逆風が吹いている。「萌え」の異質さを囲い込み、排斥する動きだ。暫くその傾向が続くだろう。・・・そして、ネギまは「萌え漫画」として、正に筆頭とも言える位置に居る。
となると、まるで暗い未来が見えてきそうなのだが、これに対しネギまには抜け道が有ると思う。
ネギまは、いや赤松健は今も昔も「王道好み」なのだ。つまり、萌えに特化して大きくデザインを変えてきたような経緯がないし、飛び抜けたエロ描写をした事も無い。(最近すれすれがあるけど)少年漫画の範疇でライトエロを続けていても、それは昔ながらの漫画の表現として認知される。つまり、萌えと切り離して見る事も出来る。
ネギまは今後もこのライトエロを堅持すべきだと思う。逆に意識してパンチラを消したりすれば、それはそのキャラに対して萌えの意識がある事を証明するようなもので、逆効果。毎回義務のようにパンチラがあるくらいの方が、作品として品(w)が出る。そんなスマートで健全なライトエロ漫画でありつづければ、読者も安心して付いていけるに違いない。
・・・
・・・て、もう単に「ネギま論」をぐだぐだ書いているだけのようになって来たw。いや、ネギまに直接関係無い事も書いてるし。なんか、どんどん酷くなるw。
まあ、こんな風な考えが、あの会に出席した後、頭の中を駆け巡っているというわけで。
ともあれ、何とかまとめなければ。
次回には終わる方向で。