ロフトプラスワン版オタク大賞

仕事が忙しい中、無理して参加。参加は前回からの二回目。
前回は意見がまとまらない内に萌えオタ的意見が大賞を掻っ攫い、気まずい雰囲気が漂うという歯切れの悪い幕切れだった。なので次は無いものと思っていた。実際、今回はロフトプラスワン側からの要望によってなんとか実現した番外編的イベントらしい。オタキングも出演拒否だった。
内容はアニメ、ゲーム、その他のパートに分け、それぞれでトピックを語り合い、無理に大賞は決めない、というもの。
各パートなかなか面白く興味深い話題で盛り上がったが、確かに大賞を与えるようなインパクトのあるものは話題に出なかった。
結局、「オタクを取り巻く環境」が大きく社会に取り上げられた事が最大のトピックだったということで、「アキハバラ」がキーワードとして(大賞ではない)あげられた。マスコミなどに取り上げられたオタク像は実像とかけ離れているし、その事象そのものはオタクとして価値のあるものでは無いというので、大賞にならなかった。
オタクは多様化してしまった、オタクはもう死んだ、などという言葉も飛び出した。
しかし、話を聞いているうちに、オタク大賞オタキングが今まで考えていたオタクというものが本当に「正統派のオタク」だったのか?と疑問に思うようになってきた。電車男やマスコミに取り上げられたオタク像が本当のオタク像と違うというが、あれはステロタイプとして確かに一つのオタク像だと思う。そうではない、趣味に一生懸命で知識を積み重ねているものがオタクだ、という認識は、実は結構最近、オタキング岡田斗司夫がオタクの地位を上げようと意図して作り上げたものだったように思う。ある意味虚像を作り世間を騙したようなもの。それが、彼らクリエーター界隈に属するオタクたちの中では実際にそういう面もあったので、知らないうちに自身もそれが正しい事であると思いこむようになっていった雰囲気がある。
しかし、実際には大多数のオタクとは、昔も今も「萌えオタ」「腐女子」なのではないだろうか。オタクの祭典、コミケのどの勢力が大きいかを考えてみてもわかることだ。元々、恋愛偏差値が低く、架空の世界で満足しようとする者の事をオタクと言っていたはずだ。その中のごく一部がクリエーター的思考を身につけ、オタクとはかっこ悪いだけの存在ではない、と言い張っていただけのように思う。
今回の電車男アキバ系ブームは、そんな虚像を吹き飛ばす「真実の風」だった様に思う。対して、前回「萌え」に大賞を掻っ攫われ、苦虫を噛んだような顔をしていたオタキング達こそが、実は嘘をついていたのではないだろうか。まあ、物事は人によって見え方は違うで、何が正しいのかなどは判るはずもないが。
あと、イベント内で心に残ったコメントを一つ。氷川竜介の「オレは幸せになるためにアニメ見ている!」というコメント。評論するためにアニメを見ているのではない、というのは常に私も思っていることで、氏の熱いコメントに少し感動した。