キャラクターの年齢感覚

ネギまの話をしたいのだけれども、まずは別の作品の話から。

おジャ魔女どれみ16」は、どれみがアニメが終った後も成長していたと仮定して、アニメ終了4年後の世界を描いている。
この感覚は「有り」だなと思う。つまり、読者が作品から一時離れていたとしても、作品の世界では「読者と同じ様に時間が流れている」という感覚。まあ、実際の時間のずれはあるけれども、それは発表時期のずれと考えれば、それほどの問題じゃない。
読者は、作品世界に引き込まれていると、それを現実と同じ様に「実感」する。ならば、その実感した世界は「現実と同じ様に時が流れているべきだろう」と感じる。時間は、全ての存在に等しく流れるものなのだから。
翻って、ネギまの話。ネギまは、時間の流れが明確に設定された世界として描かれている。つまり、「ドラえもん時空」とかのように、時の流れを曖昧にしていない。描かれている世界は、しっかりと時間が進む。
ただし、描かれることに「現実世界で」時間がかかると、ねぎま世界の時間はどんどん遅れる。ネギま世界で1年間の出来事を描くのに9年かかれば、ネギま世界は8年昔となっている。実際、現在のネギま世界は2004年だったりする。
この事にはついては、ネギまが始まった時から読者にとっても織り込み済みだった。つまり、クラスメイトが丹念に描かれれば描かれるほど、彼女達の存在は過去の存在となっていく。今見ている彼女達は昔存在した彼女達なのだろうと感じる。だから、彼女達が昔の「中学生」としていることについて、それほど違和感が無い。それは、数年前の彼女達を「見続けている」から。
しかし、魔法世界編に入り、そしてまた麻帆良学園に戻ってきて久しぶりにクラスメイトを見たとき、少し違和感を感じる。・・・なぜ彼女達は成長していないの?と。
いや、若しくは「成長していると誤認識」して見てしまう。読者自身は、この数年で成長している。ならば、しばらく接する事のなかったキャラクター達も成長しているはずと、無意識下で彼女達の精神年齢を成長させるという現象が起きるかもしれない。キャラクターが描かれ続けて「キャラクターの現在」が更新され続けて「無かった」場合にのみ起きる現象だ。
読者の感覚とは不思議なものだ。他にも、キャラクターボイスの影響というものがある。そのキャラクターの声優が定着すると、声優の人格などがキャラの雰囲気にも影響を及ぼす。特に、作品上のキャラ描写が薄ければ、キャラのイメージが声優の雰囲気に「乗っ取られる」ぐらいの事もありえる。当然、声優の年齢は中学生よりも年配だから、知らない内にキャラクターにも貫禄の様な物が付いてきたりしてしまう。
ぶっちゃけ、351時間目の柿崎については、どう考えても中学生とは思えなかった。少なくとも現実世界と同じ20代半ば、もしくは静御前の御歳と同じ(ゲフンゲフン)代とすら感じてしまった。対応している明日菜の方が、実際には数百年の歳を生きているのに中学生らしさをイメージできるのに対して、全く逆の感覚はかなりの違和感だった。
逆に言うと、そこに「ネギまの年輪」の様な物が見えて、ネギまという作品の辿ってきた時間の大きさを実感出来るのだが。そういう意味でも、感慨深いシーンだったといえる。
長期に渡る連載の中で、読者である私達は成長し、クラスメイト達も成長し、ネギまという作品自体も成長している、という事なのだろう。

魔法先生ネギま!(1) (講談社コミックス)

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