ひだまりスケッチ×365 〜満たされて、失われたもの〜

×365は、どこか物足りない。
いや、作画は良いし、キャラも魅力的に書かれている。取りこぼしのエピソードも次々フォローされているのも嬉しい。
けれども、無印の時にあった強烈な「何か」が失われている。当初から漠然と感じていた事が、作品を見続けることによって、確信できるほどになってきている。
一体何が足りないのか。少し考えてみた。

  • 「成長する関係性」の欠落

まず、最初に気が付いたのは、主役四人の関係性が、「始めから」完成しすぎていること。
アニメ版の「ひだまりスケッチ」はエピソードがザッピングされている。だから、「心の成長」「関係の深まり」みたいな連続性のあるものは、ある程度おざなりにして良いのか?といえば、そんな事も無いだろう。ザッピングされているからこそ、一寸した心の襞が浮き彫りにされ、「心の成長」「関係の深まり」も、より強く認識される。この作品はその様な意図で構成されているはずだ。しかし、×365はその辺りが弱い。
例えば、第1話。概ね良い出来だと思ったのだが、一つ引っかかるシーンがあった。それは、沙英とヒロが合格発表の様子をひだまり荘から眺めるシーン。沙英が薄着でいるヒロに気遣いの言葉をかける。二人の夫婦的な関係性が感じられるこの「いちゃつき」は、アニメ×365で追加されたセリフだ。
ひだまりスケッチは、擬似的な家族関係を作る4人の女の子の、心温まるエピソードが魅力の作品と言える。だから、このセリフだけを見ると、確かに視聴者の望むシーンを描いているのだからOKの様にも思える。しかし、ここでこれを描くのは違う様に思う。確かに、沙英とヒロの仲は昔から良い様だ。しかし、それがこの時点で、つまりまだゆのと宮子がやってくる前に、ここまで自覚的な態度を取っていたのかというと疑問だ。いや、そうであっては「つまらない」。
ひだまり荘という擬似家族は、やはり、ゆのと宮子という「子供」が加わったからこそ、構成されたのだと思う。手のかかるお子様のゆの、そして、誰にでも「まるで家族の様に」遠慮無しに接する宮子という求心力を得て、実は少しずつこの4人は「家族」になっていったのだと思う。沙英とヒロの二人は、ゆのと宮子という「子供」を得て、庇護者として夫婦のような関係が「求められた」とした方がしっくり来るだろう。
例は他にもある。×365第7話、入学式の頃のゆの宮子のシーン。宮子がゆのを「ゆのっち」と呼ぶシーンが「僅かながら」原作よりも多い。
この「僅かながら」な部分が問題と思える。この前のエピソード(第1話)で、二人の関係が急激に接近しているのは確かだ。とは言え、それでも二人はまだ出会ったばかり、少し慣れていない所もある。そんな初々しいところがまるで消えてしまっているのは、残念でならない。
この様に、ひだまり荘の「擬似家族」的な関係性は、決して、四人が出会ってすぐ出来た物ではないと思える。彼女達の心の繋がりはとても強く感じられるが、それはやはり、長い時間を使って育んで得たものでもあるとした方が、その関係性に深みが出るだろう。
また、もしかしたら、声優さん達が前シリーズを経て親睦が深まった事も、このようなシーンに影響しているかもしれない。けれども、このようなザッピング構成をしている以上、その演技指導については、演出側にその責が帰する所だろう。
このように、シナリオ面、演出面共に、「ひだまりスケッチ」で描くべき「四人の関係性の成長」という部分が、かなりアバウトになっていると思われる。
とは言え、この「成長する関係性」は、「ひだまりスケッチ」において「あれば望ましいもの」ではあるものの、「必要不可欠」なものでは無いかもしれない。それを削除して四人の深い関係性を満遍なく描く、という選択肢もありえる構成と思う視聴者がいるかもしれない。(私はそうは思わないが。)
しかし、次にあげる欠落点は、「ひだまりスケッチ」において「必要不可欠」なものでは無いかと思っている。

  • 「未来への緊張感」の欠落

ひだまりスケッチ」は、見ていて「特別な何か」を感じさせる作品だと思っている。
ゆのがかわいい、他のキャラクターも魅力的、世界観もほんわかしていて癒される・・・、確かにそんな魅力の詰まった作品ではあるものの、この作品にはそれだけではない、読者・視聴者を惹き付ける「何か」がある作品のように思う。
それが何なのか、以前考えてみた事がある。
アニメ「ひだまりスケッチ」3つの魅力 その1 〜構成の妙〜(2007/8/13)
アニメ「ひだまりスケッチ」3つの魅力 その2 〜見て嬉しい、各話テーマ〜(2007/8/15)
アニメ「ひだまりスケッチ」3つの魅力 その3 〜伝わる感動、全体テーマ〜(2007/8/16)
「その3」で、少し冗談めかして語ったのだが、結局、この「ひだまりスケッチ」という作品の本質は、主人公ゆのの、絵の世界における成長物語、もしくはサクセスストーリーなのだと思う。
ぬるま湯のような世界のひだまり荘、そこで4人の仲良しグループが、まるで擬似家族のように楽しい学生生活を送っていく・・・という、一見甘々なだけの、学生版「お茶の間ドラマ」。
しかし、実際には、物語のそこかしこに彼女達の未来への漠然とした不安が描かれている。未来への不安、それは自分達が「絵」という芸術の世界で生きていけるかという事。芸術とは、生活にも密着した感性の世界のものでもある。だから、主人公ゆのの思考は、ちょっと視線をずらすと、全て未来への不安に直結する。楽しい学生生活を送っていながらも、つい、その楽しさの中に未来に繋がる「何か」が無いかと思考が動く。
一見、のんびりした世界のようでいて、実はその裏に「未来への不安」という緊張した空気が絶えず漂っているのが「ひだまりスケッチ」の本質であり、だからこそ、その何でもなさそうなエピソードの一つ一つが無視できなくなってしまうのだろう。
そして、×365にはそのような空気感が感じる事ができない。
ここ数回、エピソードの水増しを見たが、そのほとんどが4人でちゃぶだいを囲んで御菓子を食べるシーンだった。これでは単なる「ちゃぶ台ドラマ」でしかないだろう。しかし、この4人は無意味にちゃぶ台を囲み、時間を浪費したりはしないように思う。ミーティングが必要な時、創作活動への刺激が欲しい時、一種の「同士」として集うのだ。もちろん、休息の時間としても設けているが、そこにほんの少しでも「集まる事だけが目的」という気配が感じられてしまうと、4人の空気感は全く別のものになってしまう。
他にも、安易にみさと先輩が出てきたのも戴けない。ゆのにとって、先輩とは「自分の未来の可能性」そのものだ。だからこそ、それらは安易に出てこない。登場するときには、例えば岸さんのように、ゆのの未来に影響を与える存在として出てくる。そのような存在を、視聴者にだけ紹介するように登場させる事は、どう考えても意味が無いように思える。ゆのの抱える「未来への緊張感」は、視聴者も同時に感じてこそ意味のある事なのだから。
そして、この「ひだまりスケッチ」という物語は、そんな緊張感の伴う日常の果て、大きな成功を収めることが「約束された」サクセス・ストーリーである。なぜなら、主人公ゆのが、正に原作者蒼樹うめの分身的存在だから。そうであるからこそ、主人公ゆのは一寸した苦味のあるエピソードも体験しなければならないし、逆説的に、茫漠とした不安も抱えていなければならない。
ひだまりスケッチ」にとって、「未来への緊張感」は、約束された成功へ向かう為に絶対的に必要な要素と言えるだろう。

  • されど「×365」

しかし、色々と不満を挙げてみて、ハタと気が付いた事がある。なぜ「×365」なのかと。
この題を付けたのは蒼樹うめ本人だという。一年という意味の他に、人間の体温36.5℃という意味も含まれているとか。
36.5℃とは、正に「平熱」だ。しかし、未来への希望に向かって一生懸命生きているゆの達の本質は、本来「微熱」気味だろう。そんなエピソードを纏めたのが前シリーズだったように思う。つまり前シリーズに副題までつけるとすると「ひだまりスケッチ×372」とかw。
しかし、今シリーズでは、彼女達の「平熱」な日常の部分だけを集めて描いているとすれば、納得できる。このシリーズはザッピングされた構成でもある。その様な意図で構成したとする事も可能なのだ。前作で描かれている「ひだまりスケッチ」の本質は、とても濃いものでもあった。もし、それに「平熱」の「×365」が混ざっても、薄まるものでは無いかもしれないだろう。
前シリーズが終わった後、それらのエピソードを時系列順に並べて見返してみると、また新たな発見が出来てとても楽しかった。「×365」の終了後は、前作と組み合わせてそのような見方が出来る。もしくは、前作の時以上に面白い発見ができるかもしれない。
ひだまりスケッチ」は、このような構成のシリーズになった時点で、「終わりきる事の無い」作品になったと言えるだろう。現シリーズ「×365」の評価も、まだ暫く先に延ばす必要があるように思う。