ネギの目的はネギ・パーティからどう見られているのか?

最近こだわっていたことについて「のどか15歳」さんでも記事にしていたので反応してみる。
「本当にサウザンドマスターを捜す必要があるのか?」
http://nodoka15.main.jp/#20070723
この疑問は非常に面白い。というのも、「その理由」について、本人とネギ・パーティのメンバーの捉え方の差をあぶり出すからだ。というか、ネギ本人も「その理由」について未だ明確な形にしていないともいえるので、ネギ・パーティの「誤認識」を表すと言えばよいだろうか。
ネギはサウザンドマスターを探し出して会いたい。これは非常に強い欲求だ。ネギ自身が「父さんを諦めれば、僕は僕でなくなってしまう・・そんな気がするんです」と言ってしまうほどだ。(168時間目)
では、それは一体何故なのか。
ネギ本人としては当初、故人であり普通なら既に会えない肉親としての父、強くなりたいという欲求の目標としての父が、実際には生きているという事から「会いたい」、つまり「親を求める」「憧れ」という気持ちが会いたい「理由」であると思っていたようだ。
しかし、その程度の理由では、自分自身が成長すれば自然に解消されてしまう事でもある。実際にはそんなものではない、もっと深いこだわり、言わば情念のようなものがあるという事に気付かされるのがヘルマンの言葉。これによって、後にネギは五月に対して「全部全部僕の昔の嫌な思い出から逃げるため」と語っている。(73時間目)
この言葉は若干曖昧だが「嫌な思い出」=故郷の村の惨劇、「逃げる」=罪悪感に気付かないようにしている、と取る事によって、初めて「父に会いたい」というネギの目的とつながってくる。つまり、ネギは村が全滅したのは自分自身のせいではないかと内心疑い、それをサウザンドマスターに会って質したいのだ。
これには、ネギ自身の出生について、母親の事が一切語られないという物語としての謎も絡んでいる。つまり、ネギの出生は一切が謎であり、その中には村の全滅の原因も含まれているかも知れないのだ。
そして、181時間目のセリフ「僕が今何故ここにこうしているのか」によって、この事をネギ自身もある程度自覚している事が確認されている。
さて(ここからが本題w)、この事をネギ・パーティのメンバーがどう捉えているのか。その、あまり明確でない雰囲気を、千雨がその核心を突く質問によって明らかにしている。
おそらく、ネギ・パーティのメンバーは、ネギが当初自分自身でも思っていた「親を求める」「憧れ」という気持ちが「ネギの理由」であると思っているのではないだろうか。少なくとも、ネギにそれ以上に強い情念のようなものを感じたとしても、その部分をあまり深くは追求せず、ネギの思うとおりにさせてあげようとしている。そのようなあいまいな理由のまま危険の伴う旅行に付き合う事を考えると、ネギ・パーティメンバーのネギに対する献身さはかなりのものだ。
だが、千雨は違う。その危険性と付き合う理由をしっかりと秤にかけようとしている。
また、千雨がこの質問をしたのには、ネギを「大人な部分がある」と捉えている事も関係しているだろう。千雨は学園祭を通じてネギの事を実に客観的に見てきた。その結果、あの千雨にして「ただの10歳と思う訳にも」(149時間目)と感じるまでに至っている。千雨はネギの事を対等な立場で質問できる相手であると思い、この質問をした。それは千雨がこの質問をする際、普段素顔を隠しているメガネを取った事によっても表現されている。
もしかしたら、他のネギ・チームメンバーには、ネギの事を「10歳の少年でいて欲しい」という欲求のようなものがあるのかもしれない。だからネギの理由を、少年らしい「親を求める」「憧れ」のままでも良いと考えているのかも。それはネギに対する「甘さ」だろう。(ただ、のどかと夕映は181時間目のネギのセリフを聞いているので、ネギが「気づいてしまって」いる事を認識しているだろうが)
しかし、ネギを大人と捉える千雨は、そのままである事を許さない。これは、他のメンバーの献身にネギ自身に自覚があるかという事も問い質したかったという事もあるのだろう。
千雨はネギに対して「甘さ」が無い。しかし、それが故にネギの本質を理解し、その核心を突こうとする。
ただ、どちらにしてもネギに対して深い興味を持っているという訳であり、同じネギ・チームのメンバーとして強くネギに惹かれていると言えるだろう。
嵌っちゃったな、ちうっち。w