「ネギま!」が終る、幾つかの理由

ネギまが今週で最終回を迎える。赤松健は「続編?」とか微妙な事もつぶやいているが、基本的にはやはり終るのだろう。
ネギまは、未だ回収し切れていない設定が山ほどある。まるで打ち切りになったかのようだ。しかし、ネギまは単行本はそれなりに売れている。いや、限定版の値段を考えると、かなり売れていると言って良いだろう。連載9年にして、いまだ充分に人気のある作品と考えてよい漫画だ。それなのに、終る。
その理由を考えてみた。

  • 商業的な理由

赤松健が自身で「ネギまはオワコンと言いたい」と冗談を言っていたが、これは少し、本心も含んでいるだろう。
ネギまはオワコンだ。なぜならば、メディアミックスに失敗したから。あれほどCD発売では旋風を巻き起こしたのに、アニメの出来が最悪だった。それでも2シリーズ目も作ったけれども、原作破壊は止まらなかった。これでメディアミックスは完全に死んだと言って良い。実写?うーん、(^^;。
赤松健には、おそらく単行本の売り上げ以上のものが求められているだろう。それこそがメディアミックスであり、それはネギまというコンテンツでは終ってしまっているのだ。だから、オワコン。
商業的に仕切りなおしをしたいというのは、赤松健、出版社、関係者全体が望んでいることだろう。
例えば「AI止ま」の原点に立ち返って、モバゲーありきのものとかをやればよいんじゃないかな。いっそ、「モバマス」のコミカライズとか・・・そりゃ無理か。

  • 物語の目的達成

伏線は色々と残してしまっているけれども、実はネギまという物語は「物語の目的」を達成してしまっているといってよいだろう。
それは、ネギの成長であり、つまりは、ネギが父親であるナギに追いつくことなのだけれども、それは、ナギにして出来なかった魔法世界を救うという偉業を達成する方策を見つけ、着手した時点で成してしまっている。つまり、実は物語は終っている。
もしネギの目的が「正義の味方」だとすれば、ドラゴンボールよろしく新しい敵を出し続ければいくらでも続くだろう。敵というのならば、ナギ自身が敵として残っているので、それを倒さなくては物語が終ってないのではないか、と思えるかもしれない。
しかしそれは、ネギが当初に定めた目的を達成するという物語においては、あくまで傍系となるのだろう。
ネギま」は「主人公ネギが、立派な魔法使いの先生になる」という物語なのだから。

  • 萌えと燃えの両立の難しさ

もう一つの物語面での理由として、テクニック的に難しくなってきたのが、この萌えと燃えの両立だろう。
あまりにバトル物としての要素が強くなってしまい、それに着いていけていないクラスメイト達の出番がどうしてもなくなってしまう。
ネギまが元々萌え漫画として始まったにも係わらず、その要素が薄まってしまうのは、やはり問題だろう。とはいえ、物語の方向がバトルに大きく振れてしまった今の状況を無理に元に戻すのは難しいし、それをやったらバトルでついてきた人が去るかもしれないというジレンマもある。
既に、この両者の溝が極限まで来ていると思える。

  • 萌えの鮮度

萌え漫画のキャラクターには鮮度があるというのが、赤松健の持論らしい。これは一理あるだろう。萌えの本質はエロであり、それはある程度続けて接していると慣れてしまうから。
また、萌えオタの主流は若者だろうが、10年も経てば立派なおっさんだ。いつまでも萌え萌え言ってくれる者はそんなにいないと判断できる。(まあ、ここにいるけどw)
ただ、これには少し異議がある。萌えは、物語が持続している限り続くと思う。何年経っても魅力的なキャラクターはいくらでもいるだろう。それは、作品が続いているからこそ、人気が継続している。それはキャラの萌えにも該当すると思う。
人が一人の人を生涯愛する事がある様に、そのキャラとの物語が継続していれば、キャラもその間は愛され続けるだろう。
とは言え、時代を超えて普遍的に魅力的なキャラ造詣、時代が変わって、読者の世代が変わっても対応できる物語展開、などを作り継続するのは相当大変だろう。技術面から見て「萌えの鮮度」はやはりあるといえる。

  • 作画の変化

漫画に良くある事だが、書き進めていくと作画が変わってきたりする。勿論意図的にやっている場合もあるだろうが、作画に「手馴れ」たために変化した、という事もあるだろう。
ネギまの場合、最初の5巻くらいは、手馴れも少ない漫画チックな作画だったように思う。それが麻帆良祭の前半くらいまでに、非常に手馴れていつつ、密度の濃い作画になっていたのではないだろうか。
ただ、その後、超の罠で未来に行った後あたりから、少しずつキャラの密度が薄くなっていった気がする。それはその後、ネギ×ラカン戦あたりから極端にバトルに走る事により、全然別物と感じるほど変化した。この辺りから読んでいない人も多いかも知れない。
バトル物、腐女子向けとしては需要があったかもしれないが、それは上記の萌え燃え問題とも絡み、後戻りできない決定的な要因になっているかもしれない。
・・・
五つ挙げたが、今思いつく主なものはこのくらいだろうか。
ネギまという物語を全体的に見ると、やはり今終わるのは妥当、という気がしなくも無い。
これらの理由を取っ払って、仕切りなおした新しい「続ネギま」などというものも、もしかしたら出来なくも無いかもしれないが、それに今までと同じ様な魅力を感じるかと言うと、あまりその様な想像が出来ない。
やはり、これで最後なのかなあ。

「ネギま!」の成した業績 〜作品編〜

次に、ネギまという漫画がこれまでに何を成し得たのか、という話をしたい。
やはり、ネギまに対しては積極的な面から語りたいので。

  • 31人の萌えキャラ

やはり、これは大きいだろう。ネギま開始当時、「12人の妹」とか、萌え作品の萌えキャラ大量化が進んでいたのは事実だ。しかし、その流れを一気に推し進め、31人の萌えキャラを投入した。
これは、単に数を増やしたというだけではない。赤松健は、異性キャラの「グループとしての魅力」に着目したのだ。つまり、個々のキャラを魅力的に描くという以前に、グループを描いた。そこにグループとしての価値を作り得る事を証明した。
萌えには属性があり、その特性を押さえて数をそろえれば「個性を持ったグループ」を作ることができる。男のハーレム願望の実現でもあるし、一人だけを「推す」事もできる。正に究極的な萌えの型といえるだろう。
この発想は、もしかしたらモー娘。から来たのかもしれないが、より数を増やして、個人を属性で認識するほどのグループで魅力を作るという発想はネギまが始祖ともいえ、それは今のAKB48ブームに繋がっていると言ってもよいだろう。そう考えると、とんでもない発明だったと思える。

  • 高度な魔法設定

ネギまには、当初から魔法解説が付いていた。これは、見た目アバウトな魔法の描写が、実はかなり細かい設定があるという事を読者に認識させた。この魔法設定については、おそらく読者からのネットを通じた質問などにより、密度が高まって行ったのではないかと思える。
魔法にどのような意味があるのかを細かく決める事により、魔法を使ったバトルについてもより一層リアルさが増し、ネギまをバトル物へと進める要素ともなった。
ネギまは、魔法を使ったリアルなバトル漫画としての評価も、かなり高いと思える。

  • タイムトラベルもの

ネギまの最も熱かったエピソードは、やはり麻帆良祭編だろう。その熱さを最も演出したのが、このタイムトラベルだ。
タイムトラベルものは結構あるが、実はそのほとんどが「上書きもの」だ。読者は、タイムトラベルに何を求めるのかと言うと、過去の書き換え、つまり「IFの世界」の実現だ。それを実現させるには、タイムトラベルで過去を上書きするしかない。これは、実は物語制作上、結構簡単な話で、単に色んなIFの世界を作れば良いだけの話だ。
しかし、ネギまの場合は、過去の書き換えが出来ない。ネギはただ麻帆良祭を何回も経験したいがために、タイムマシンを使う。その為、麻帆良祭の同じ時間にネギが何人もいて、様々な経験をしているという状況になるのだ。これは、いかな広い麻帆良学園を舞台にしているからといって、整合をとるのは極めて難しい。それをやり遂げ、麻帆良祭という3日間が実に魅力的にボリュームたっぷりに描かれたのは、ネギまでも最大の成果だろう。
また、タイムトラベルの設定は、その後書き換え不能の設定から変化し、並行世界を描くまでに至っている。
緻密で複雑なタイムトラベルものの漫画としても、ネギまは評価されるべきだろう。

結構忘れがちなのが、この麻帆良学園という設定の魅力だ。麻帆良学園内の設定もかなり精緻に描かれていて、要所要所でその魅力が使われている。特に麻帆良祭ではその魅力は沢山描かれた方だろう。
全体像が描かれているとも思えないので、ネギまという作品としては物足りなさも残るが、これだけ魅力的な巨大学園都市が描かれている作品は、他にもそれ程無いであろう。

  • 命の価値と世界の価値

もう一つ、麻帆良祭編で重要なものを忘れていたので付け足すが、超の使命に対する態度、というものも大きな物語だっただろう。
人の、世界に対する使命と、その人の命はどちらが大切か。
これは、あらゆる「世界を題材とした物語」において普遍的なテーマではあるものの、それを萌え漫画というエンタメの中で提示した意義は大きいと思える。

  • 魔法世界「火星」

これほど様々な展開を見せているネギまだが、その中でも最も大掛かりな仕掛けといえば、やはりこれだろう。
広大な魔法世界が存在する。しかし、魔法世界は世界の触媒が無いと作りえない。ならば、その世界はどこ?と、一つ一つの積み重ねによって判明した結果、それが火星だ。
この設定が、作品として発表されたのでは無く、膨大な作品の設定から、ファンが検証の積み重ねによって「発見」したのも、実に衝撃的だった。ネギまの一つ一つの設定の意味の奥深さを、改めて気付かせる事だっただろう。
ネギまという作品世界の、リアルさ、大きさを象徴している設定と言える。

  • 仮想世界トリックと仮想生命の実存

さらに、魔法世界の設定の大きな「引っ掛け」が、この魔法世界が魔法によって作られた仮想世界であるというもの。
これは、魔法世界=火星というリアルSF的なものを壊す設定ではなく、更に仮想SFという、現代社会に最も身近で、よりリアルな問題を読者に突きつけた。
人によって作られた存在が、それでもなお人と同じ感情を持っていたら、それはどのような存在か。仮想生命の実存は、命の意味を問い直す哲学的な問題までも含んでいるだろう。
ネギまは、それに明確な答えを出すまでに至らず物語を閉じたような印象を受けるが、それでも、この問題を、エンターティメントの中でリアリティを持って提示した意義は、やはり大きいだろう。
・・・
大体このくらいだろうか。細かい「凄い」を挙げるとすれば、他にもいくらでも挙げることが出来るがw。
ネギまという大きな作品が物語として提示したモノはあまりに多く、その一つ一つが「巨大」だ。これらの業績からして、ネギまという作品の偉大さは理解出来るだろう。
さらに、この巨大な作品が、社会に対して与えた影響というものもある。それについて書ききれていないので、ここでは〜作品編〜とした。だが、それ〜影響編〜については、検証対象が、企業の売り上げとか過去のネットの記録であったりして明確に捉える事は難しいだろう。なので、今後それを書くつもりはない。
誰かもっと広範に、学術的に丁寧にまとめてくれる人がいると嬉しいなあ。