ネギま!における「いじめ」と「じゃれあい」と「力関係」

少しだけシビアっぽい話をしたいと思う。
ネギま!における本当の意味での主役は31人の3-Aクラスメイトだろう。ネギの視点を通じ、彼女達の学生生活を生き生きと描く事もこの物語の目的といえる。しかし、31人のクラスメイツは実に多様なキャラクターの集合体であり、持ち合わせている能力もバラバラだ。この能力的にバラバラな集団が「クラス」としてまとまっているという状況はかなり稀有であり、それこそがネギま!の最も奥深い凄みであり、面白さであると思っている。
この奇妙なまとまりを見せる3-Aという集団ではあるが、一体何によって互いの関係を定めているのだろうか。「クラスメイトだから、心が通じ合っている」?まあ、それもある程度あるだろう。しかし、集団が「心だけ」で通じているとすれば、それは健全そうでいて実際にはかなり不健全な話だ。言ってみれば原理的な宗教集団と同じ。なにかに操られた心の無い人形の様なキャラ描写といえるだろう。当然、ネギま!では彼女達をそのような描き方はしていない。
彼女達は互いの能力をある程度理解し、そこに様々な形で上下関係がある事も認識し、それを納得して関係を作っている。人間が動物である以上、それは自然な事だ。そこには、ある程度能力の有り無しによるシビアな力関係もあるだろうし、それを補う為の心配りもあるだろう。作者である赤松健は、ネギま!を「萌え漫画」と定義づけ「嫌な部分は極力描かない」としながらも、このあたりのシビアな関係を丸っきり削除する事はしていない。キャラを人形にしないため、彼女達の生の関係をちゃんと残している。だからこそ、その少し危うい関係が生き生きとしてくるし、キャラも立っているのだ。
例えば、166時間目(アキラのサイレントの回)に面白い描写がある。ゆーな達が集団でネギを困らせる行動に出るのだ。このシーンだけを見ると、これは単なる「いじめ」といっても良いだろう。
しかし、この「いじめ」にはちゃんとした理由がある。
この時のネギは、麻帆良祭の経験を元に既に戦闘力でゆーな達を追い抜いている。そしてその姿をゆーな達も見ている。ただ、それが本当なのか、CGなのかはゆーな達には分からない。CGとして説明されているが、現実と思ってしまうほどのリアルさに、普段のネギとのギャップを感じ、ネギに対するイメージが揺らいでいる状態といえるだろう。
だから、そんなネギが弱みを見せた姿に、それが本当なのか確かめたいという衝動に駆られた、というのがゆーな達の内面心理と思われる。これは、言ってみれば動物界における「じゃれあい」による「格付け」と同じようなものだろう。
もしこの「じゃれあい」がこのまま続いていればどうなっていただろう。ネギは暴走する美空に対して人間ばなれした瞬動を発動し、競り勝っていたかもしれない。その際、ネギがクラスメイト達の誰よりも強い、という「格付け」が出来てしまう。それは、クラスメイトのネギに対する意識を大きく変えてしまう出来事に違いない。ここでのクラスメイトとは、「魔法バレ」していない者達のこと。ネギの抱える大きな問題も知らずに、ネギを上位と見てしまえば、ネギに対する庇護感情は薄れてしまうだろう。それは、今まで築いてきた「子供先生と生徒達」の関係崩壊に等しい。アキラが途中で止めた事は、この関係をモラトリアムにしておくと言う意味で、非常に重要な行動だったと思える。167時間目で、ネギがクラスメイトに「なんかバカにされているよーな」と思える状況でいられるのは、今はまだ大切な事。ネギはアキラの行動によって、2重の意味で(いじめから守られる、両者の関係を守られる)救われた事になる。
こうして、ネギとクラスメイトのモラトリアムな関係が、一応両者納得の上で継続している事を明確にする為に、この「いじめ」、いや「じゃれあい」の描写は必要だったのだ。
今(176時間目現在)、魔法バレクラスメイト達のレベルアップによって、この奇妙な均衡がとれていた3-A内の関係が大きく揺らいでいる。一部の力の増大が隠されている以上、本音の付き合いも出来なくなってしまうだろう。その格付け変動を明確にする為にも、バトルロイヤル=じゃれあいは大切な行事といえる。自分の実力、組織力を駆使して相手との力の関係性を測る。それは人と人とが本心で付き合う為に、最も大切な事だろう。もしかしたら、ネギま部(仮)名誉顧問エヴァは、そこまで考えた上で、他のクラスメイト達を焚き付けているのかもしれない。存外世話焼きな彼女の事、有り得るだろう。
ネギま!本来の主人公である彼女達の、生き生きとした関係性の描写を、大いに期待したい所だ。