ネギ、その生立ちを再確認〜タメ口問題を理解する為に〜

179時間目現在、ネギのタメ口が一寸した問題になっている。ネギは、クラスメイトに対して決してタメ口を使う事が無い。それがクラスメイトに対する「心の壁」ではないかとパルが指摘し、クラスメイト達も不安に陥ってしまっている。
ただ、それはネギの先生像として、生徒との関係はこうあるべきという考えがあり、特別な思惑無くクラスメイトに対して使用しているだけと思われる。対して、ネギがタメ口を使うのは、高畑とコタローとカモとアーニャ。もう少し詳しく言えば、実はフェイトにも。コタローに対して初対面の時からタメ口であった事を考えると、ネギの方針としては自分と同い年くらいの存在には基本的にタメ口を使うようだ。高畑とカモは共に友人で有る事が確認出来る存在としてタメ口になっている。
ネギのタメ口使用は、その基本方針が結構しっかりしている。それがネギの「心の壁」、つまり親しさと直接関係が有るかというと、かなり疑問だ。ある意味機械的に方針が定まっているので、親しさを計る事は出来ないだろう。
この問題、つまり、ネギとの親しさを把握する為には、ネギの心の有り様をもう少し理解する必要がある。その為に、ここで改めてネギ自身の少し特殊な生立ちを再確認してみたい。
ネギは幼少の頃より両親がいない。母親については物語上全く情報が無く、父親のナギは世界的な英雄とされながらも、死んだ事とされている。(最近生存だけは確認された。)
ネギが4歳の頃住んでいたのは山間の小さな村。実はこの村はかなり特殊な村で、英雄ナギを慕って集まった人々の集落らしい。そこにはネギと同じ頃の子供はほとんどいなかったようだ。唯一アーニャが幼馴染とされているが、後にネギとネカネを除いて全滅してしまうこの村の出身なのかは疑問。もし同じ村なら、この村の悲劇はアーニャにとっても大きな問題になりネギとの関係ももっと変わっているはずだからだ。おそらくアーニャはとなり街から遊びに来ていた程度の幼馴染であったと推測する事が出来る。
ネギは子供の頃から父親ナギに憧れていて、それは今でも同じだ。ただ、確認しておきたいのは、このネギの「ナギへの憧れ」は、村の悲劇の事件を境に内面的に大きく変わっていると思われる事。
事件以前の父への憧れは、肉親や友人がいない孤独な心を紛らわせるものだった。その為、自分にピンチに陥ればナギが助けに来てくれるだろうと、ピンチ自体を望んだりもしていた。
しかし、そこに本当の悲劇が起こった。まったく理由の分らない悪魔軍団の襲来により、村は全滅する。そしてネギの望んでいたとおりナギが駆けつけ強力な魔法で敵を一掃し、ネギとネカネだけが生き延びた。
ネギはその姿を見てより一層ナギに対する憧れを強めたが、実際にはその心はかなり屈折した状況にあると言って良いだろう。あまりに強烈な悲劇で有った為、ネギはそれを子供らしい受身の心で「自分のせい」であると認識してしまったのだ。このこだわりは、明日菜に話した時強く否定されはしたものの、ネギの中で解消されているとは思い難い。ネギの心の奥には今もこの罪悪感が重く存在していると思われる。実際の所、ネギが最後まで守られた状況からして、村の悲劇の原因がネギである可能性も無くは無いだろう。
ネギがとり付かれたかのように魔法の勉強に没頭しだすのはその後である。おそらく、ネギの心には「ナギへの憧れ」という名目に隠れて、「村人への罪悪感」が存在している。「ナギに会いたい」というのは、なぜナギに憧れていた人々が襲われなければならなかったのか、という疑問を解くためとも言える。そしてそれが本当に自分に非のないものなのか確認し、自分の中に有る「罪悪感」を消し去りたいという願いが有るからとも言えるのだ。
ネギは、魔法学校で魔法の勉強以外ほとんど何物にも見向きもしなかったのだろう。戦闘に対する興味からゲームに興じたり、魔法知識を深める為魔法道具にも興味を持っていたようだが、それらは全て強くなる為と解釈する事が出来る。
短い学校生活でありながら、その中で2学年の飛び級までしている。そんなネギがまともに友達を作れたのか、はなはだ疑問だ。ネギに付き合ってくれたのは、ネギの過去を知っているアーニャだけだったのだろう。彼女だけはネギに追い抜かれないよう1学年の飛び級をして同時に卒業している。(元々アーニャの方が1才年上)
そんなネギの学校における態度も容易に想像できる。同学年の者に対して気さくにタメ口で話す事があっても、自分の領域には誰も入れず、ただひたすら上を目指す日々。同級生に「友人」と呼べる関係の者がいても自分の真の目的を打ち明けたりはしない。そういった意味では、心の通じ合う真に「友」と呼べる者はいなかったのかも知れない。高畑やカモに対してもタメ口を使うが、両者とも別次元の存在として心を開いているのであり、少し特殊な友達関係といえるだろう。
そんなネギにとって、「強くなる」という同じ目的に向かうという意味で、コタローこそ初めての友達になるのかもしれない。悲劇によって閉じてしまっているネギの頑なな心は、同じ目的を持っている存在に対してのみ、初めて開き始めていると言えるだろう。
そして、3-Aの内ネギま部員はコタローと同じくネギと共に上を目指している存在だ。他のクラスメイトの多くも既にネギの目的を理解し協力しようとしている。先生としてのネギにとって生徒である彼女達を「友達」という言葉で表せないかも知れないが、今まで出会ってきた「友人」達よりも、より強い心の繋がりを持っていのかもしれない。178時間目においてクラスメイト達と遊ぶとき、ふと見せたネギの笑顔は正にそれを実感しているかのようだ。
ネギのこの半年間の教師生活は、そんな深い心の繋がりを形成させるに充分な濃い期間だったと思える。それは、幼馴染であり、より長い時間をネギと過してきたアーニャのそれよりも深い物になっている可能性もあるだろう。
アーニャがネギと再会し、ネギとクラスメイトの関係にどの様な物を感じる事になるのだろうか。今後の展開がとても興味深い所だ。