魔法先生ネギま! 208時間目 リミット

全編、ネギの精神世界と言っても良い構成。これほどまでに思い切った構成は、「ネギま」ではなかなか無い。それだけこのネギの修行によって導き出される答えが重要だという事だろう。
で、出た答え、「闇」の正体とは、「全てを受け入れる事」。つまり前回「全てを飲み込む混沌」と言っていたもの、そのものだった。これは確かに意表を付かれるw。
しかし、どこか釈然としないものは残る。なぜ、この「全てを受け入れる事」が「ネギに適性がある」という事になるのだろう。
「善悪を受け入れる」という事は、禅問答に似て、どんな場面にでもある事だ。善だけ、悪だけで生きれないのは誰もが同じ。それは「大人」であれば誰でも理解している事だ。ただネギは衝撃的な「過去の記憶」と「子供である事」の狭間にあるが為に、この事を理解するのに誰よりも苦しい過程を歩いているだけに過ぎない。ある意味、何かの達人であれば、誰であってもこの「全てを受け入れる事」を身に付けているものでは無いだろうか。
そう考えると、この「全てを受け入れる事」は単に額面だけで受け取る事は出来ないように思える。例えば、一時的であれこの技が出来たラカンなら「全てを受け入れる事」くらいの境地には達しているだろう。ならば、その彼が「ヤバイ」となるほどの拒否反応がでる理由が、「全てを受け入れる事」などという精神論以外の部分にあるべきなのだ。おそらく、「全てを受け入れる事」とは、この技を身に付ける為の技術であって資質ではない。そして、本当に必要な資質が他にあると考えるべきではないかと思える。
その資質とは、精神世界による修行という事からも精神の資質になるのだろうが、それは「他人からの助言」程度で培われるものでは無いだろう。それらの助言は、ネギの「ありよう」を「そうあるべき」として指摘したに過ぎないのかもしれない。しかし、だからこそネギの心に響き、彼自身が自分を見つける言葉として役に立ったのではないだろうか。
しかし、そんな事を考えると、この技はかなり「危ない」ように思う。
ネギの「精神の資質」とは何か。それはこの技を編み出したというエヴァの精神との共通点からも推測することが出来る。
エヴァは「気が付いたら不死の存在になっていた」という事によって現在の精神が成り立っているといってよいだろう。当初エヴァには「自分を不死にした者」に対する復讐心があったようだが、その復習もすぐに果たし、その後の彼女にとっての問題は「自身が不死である事」だけだったといえる。
そんな彼女の欲望とは一体何か。それは「死そのもの」。エヴァにとって、普通の人間として死ぬ事こそ、秘めたる願望では無いだろうか。
ラカンは、ネギのカゲタロウ戦を見てその資質を見抜き、「適性がある」と言った。あの時のネギは、カゲタロウによって絶体絶命の危機に立たされ、そこに悦びを見出していた。死を賭けた戦いを望んでいた。それは、ただ単に自分が強敵とまみえて強くなる喜びではなく、ネギの本質として「死に対する願望」があったからでは無いだろうか。
ネギは、今までの行動の中でも、「自分が死ぬ事」に対して躊躇しないシーンがあまりにも多い。このネギの「本質」は、「全てを受け入れる事」への助言よりも、より明確に描写されてきている事実だ。
ならば、この「死を受け入れる事」こそがこの「闇を受け入れる」為に必要な「資質」であり、「全てを受け入れる事」という「技術」と併せて意味を持つ、というのが、この技の本質なのでは無いだろうか。ただ、少年漫画で「死を受け入れる」などという物を、ある意味肯定的に出すわけにもいかないので、ある程度ぼかしているように思える。
とは言え、もしこの「死を受け入れる」という物にファンタジー的な意味合いを持たせるような展開があるとすれば、それはかなり嬉しい。「死」と「幻想」と「魔法」は切っても切れない間柄にあり、そのような精神的なテーマを盛り込めれば、「ネギま!」という作品がファンタジーとして一ランクレベルアップするようなものだからだ。今回の描写にもあるように「ネギま!」の源テーマには「死」が厳然と存在している。ならば、是非その辺りも描き切って欲しいものだ。
(まあ、ライトなエンターティメントであっても充分だけど。)