AI NONAKA NO TEAR×NO LIVE 2008 Shibuya O-EAST

人にとって「芸術」とは何か、と考える事がある。
芸術とは、人が「気持ち良い」と感じる部分であり、その範囲は一人ひとり違うものだ。世間で評価されている芸術とは、その「個々の芸術」に最大公約数的に含まれているものに過ぎない。ただ同時に、人は「気持ち良い」と感じる部分を見出すまで芸を深めていない場合もある。そうして、世間で評価されている「世間一般的な芸術」に迎合し、それが自分の芸術だと早合点してしまう事もあるだろう。今の世のように、情報が溢れている状況では、自らの芸術を見出すのは逆に難しいのかもしれない。
・・・とまあ、何故こんな小難しい妙な話をしているのかというと、どうして野中藍は自分の歌に深いコンプレックスを感じているのか、という事を考えていたから。
野中藍の、歌に対する強いコンプレックスは、ファーストアルバムを披露する初めてのイベントの際、自身のコンプレックスとの狭間で、泣き出してしまったほど。その後も、アルバム制作毎に、自己嫌悪に陥っていたという。なぜ、そこまで彼女は歌にコンプレックスを感じるのだろうか。
野中藍の歌には、何故だか元々しっかりとした「型」がある。それは「音程がずれている」「テンポがずれている」などの理由で世間一般的には評価されないものかもしれないが、それでも、心を浮き立たせるような、思考を停止させるような、なんとも言い様も無い、不思議な世界観を持つ歌の「型」になっている。
もしかしたら、野中藍は、元々歌を歌うことが好きだったのではないか。少なくとも、自分の中に「自分の歌」を、つまり「芸術」を見出せるほどに、歌を歌っていたのではないか、と思う。
しかし、逆にそれを持つが故に、彼女の「芸術」が「世間一般的な芸術」とかけ離れていると指摘され、深いコンプレックスになったのでは無いか。そんな、「世間一般的な芸術」との比較などは、「個々の芸術」を持つ事に比べたら、何の意味も無い事だというのに。
今回のライブで、野中藍は舞台ステージのデザイン画の制作も行っていた。彼女にとって、そのように自分を表現する事は、ごく自然な事なのだろう。彼女がそういう姿勢でいる事を確認するにつけ、きっと彼女の歌の「芸術」も、自身の中にあるのだろうと確信を深くすることが出来る。
今回のライブでは、最初の頃は、音程もテンポもそろった、彼女にしてみれば「よく出来た」歌を披露していた、いやそうしよう心掛けていたようだった。ただ、実はそれはあまり面白くない。
しかし、後半になって、疲労と共に、彼女の感情があふれ出した頃、「それ」はやって来た。(^^)
何かをかなぐり捨てて彼女が自由に歌い始めると、音程は外れ、テンポも微妙に揺らぐ。しかし、それが堪らなく心地よい。これこそが「野中藍」だ。
今回の選曲は、思いのほかバラード系が多く、正に「NO TEAR×NO LIVE」というタイトルにあったセットリストだったと思う。彼女の内面を、出来るだけ正直に表現しようとした結果、このような構成になったのだろうと、納得できるセットリストだった。ただ、その分、技術力を高めようと心掛け、その結果として彼女の良い部分が損なわれていたようにも感じた。
いや、「世間一般的な芸術」でなければ高みを目指す事も出来ない、という立場もあるだろう。ここで言っている事は、もしかしたらマニアックで意味の無い意見なのかもしれない。
野中藍の芸術」がより幅広い世間で認められる方策は何か。前回の、神懸った魅力を放っている「新春あいぽんショー」のDVDを見返してさらに考えてみよう。

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