岡田斗司夫の「遺言」 第6章 ロフトプラスワン

crow22008-05-25

 実を言うと、この題のイベントに参加するのは初めて。第1章から行きたくて、どうにか調整したりしていたのだけれども、何故だか機会が合わず参加できなかった。
そして、初めて参加した今回が最終回になるという。
 私にとっての岡田斗司夫は、簡単に言えば「人生の師」だ。彼の考え方とかと相容れない部分も多いのだけれども、なぜだかそうなっている。勿論面識も無いし、しっかりとした講義を受けた事もなく、著作物も大して読んでないけれども、そうなのだ。おそらく、自身の思考パターンの学習を彼をお手本にしてしまったから、そうなのだろう。これは、そうそう抜けるものではない。最悪だ。w
 さて、今回は最終回らしく、実に深いオタク論を聞く事が出来た。これこそ、オタクの王様を名乗る者の集大成、と言えるものだった。ある意味、これまでの彼のオタク人生の話などは、記録に残っているもので見れば充分だろうが、この最終回に彼のこの「判断」を、彼の生の言葉で聞けた事は、なにより意味のある事だろう。それほどのものだった。

  • オタクは、人の世の裏側を知る者である。
  • オタクは、遺伝子を残すより知伝子を残す事にこそ意味を見出すものである。
  • オタクは、その知的な活動をする為に生の掛け金を全て張る生き物である。
  • よってオタクは、その活動維持ができなくなった時に「自ら命を絶つべき」である。
  • もちろん、私の死は「自殺」でしかありえない。

彼は、この常人からすれば「気の狂った」主張を堂々と言い放った。
・・・実を言うと、この彼の思考は、実に良く分かる。それはもう、嫌になるくらいに。
オタク活動をする事を、それこそ逃げ道なく肯定し続けると、最終的にはこの思考に辿り着くのは明白だ。それほどオタク道とは業の深いものなのだ。今の社会で、未来予測とかをかなり正確にできる知性を持った人ほど、この「気の狂った」思考は、それほど非常識では無いと感じるだろう。筒井康隆の『銀齢の果て』とか。
まあ、片足程度しかオタク道に付けていない「だらオタ」としては、とても良く分かるけれども、到底追随出来る事ではないのだけれども。だって、だらしない本能の方が勝っているから。
人が自殺を考えるのは麻疹にかかるようなものだし、1年2年で死ぬとか言っているわけではないのだから、今のところ彼について心配してもしょうがない。死が無意味なように、生も無意味だという事を(逆じゃないよ)思い出せれば、こんな事言い出さないのにね。
ともあれ、とても良い話を聞けた。こういう思考こそが正にオタクの思考の核だ。素晴らしい講演だった。
最後にオタキングの遺品になる鳩サブレコースターを手渡しで貰ってきた。
これは一生大事にしよう。