「魔法少女まどか☆マギカの害悪」〜虚淵氏の大いなる勘違い〜

まどか☆マギカ」は大変面白かった。
なにが良いかって、なにより「大いなるファンタジー」である事が素晴らしかった。
ファンタジーの良さは、よりダイレクトに真実に近づける事にある。ファンタジー=非真実という認識は間違いで、実際には、ファンタジーは現実を歪ませてまで作者の伝えたい事を伝えることが出来るという点で、より本質的な真実を伝えるツールになりえる。
そういう点で、「まどか☆マギカ」は、正に「より真実に近づこうとした作品」であったといえるだろう。なんといっても、その扱っていた題材が「エントロピー」だったのだから。
エントロピー」こそが、物事の真実を見極めるうえで、最も上位の「キー」である事は間違いの無い事だろう。少なくとも、現代科学の中では、これ以上の概念を持ち込めない。
だから、この「まどか☆マギカ」という作品の中にエントロピーを持ち込んだ虚淵氏は、本当に大きな賭けをしたと言える。それは、「自身の真実」を語るのと同義。まあ、作家のすべては自身の全てを曝け出して作品を作るべきなので、当然の事をしただけなのだろうが。
ただ、その結果表現された、作品中の「真実」を見て思ったのは、「やはり勘違いしているなあ」ということ。
虚淵氏は、以前から「エントロピー」という言葉を使っている。いわく「エントロピーがあるから人が不幸になるのは必然」。ただ、これは一寸した言葉のあやとして遣っているものだと思っていた。しかし、実際にはかなり本心だったのだろう。もしくは、彼が作品を語る上での方便なのかも知れないが、それでも彼が語りたい一つの真実なのは間違いない。
しかし、それは明らかに謝った認識と言える。エントロピーについて、その特性は充分把握しているのだろうが、それを突き詰めて考えているとは思えない。

エントロピーとは何か。カンタンに言うと、物事のデタラメさの尺度。もしくはデタラメになっていく力そのもの。デタラメ=カオスと置き換えることが出来るが、この宇宙の森羅万象、全てがこの力には逆らえず、最後には宇宙の全てがカオスになる。それを「宇宙の熱的死」という。この辺りは、作中でもGBが語っていたとおり。
人はカオス=無秩序に立ち向かい、コスモス=秩序を維持しなければならない。エントロピーの法則に則り、この世の全ての最後にはカオスが待っている。だととしても、人はコスモスから生み出された存在として、それに抗わなければ幸福は勝ち得ない。人とはなんとも悲哀に満ちた物だろう・・・。だから「エントロピーは悪」という概念は当然、というのが、案外世間の「真実」なのかもしれない。知性ある人間だからこそ、そんな「絶対悪」であるところのエントロピーに少しでも逆らうのが人間としての価値、と認識している者もいるかもしれない。
少なくとも作中において、QBはそのような認識をもった存在だったといえる。QBはおそらく作者にとって真実の代弁者だろうから、虚淵氏はこのような認識の持ち主ではないかと思える。
しかし、それは物事の一側面を見ているだけにすぎない。その視野の狭さに物事の本質を見逃しているとしか思えない。
人間=コスモス、つまり秩序だった存在といえるだろう。生命=コスモスともいえる。ならば、それに対するカオスは生命にとって悪なのだろうか。そして、それをもたらすエントロピーも悪だろうか。
そもそもコスモスとはなんだろうか。この世の全てがエントロピーによってカオスに向かう。その際、より効果的にカオスを生み出せるよう自然に生まれたフラクタル=規則性のようなもの、が積み重なったものがコスモスと言える。つまりコスモスとは、エントロピーによってカオスを生み出す過程で生まれてきた存在だ。
つまり、生命とは、人間とは、全てカオスを生み出す為の方便と言える。人が存在する価値は、人として生きる事に尽きるが、それは人として生き、その活動の結果生み出すことが出来たカオスこそが価値だからだ。
なら、人として無軌道に生きるのが正しいのかというと、そうではなく、人としてより大きなカオスを生み出す可能性を持ったコスモスを生み出す事が正しいと言うべきだろう。
「最後に熱的死が待っているのにそんな事を言ってよいのか」とかQBのような事を言う者には「なら、熱的死を実現して欲しい」と言いたい。人間として、生命として、その活動をかけて少しずつ物質の熱化というカオスを生み出そうとしている存在として、それが実現する事こそ目標なのだから。それがイヤだという者は、自分がどのような存在なのかという認識が全く出来ていないといえる。この考え方が受け入れられないと、もしかしたら人は「死」も受け入れられないだろう。それはとても不幸なことだ。
この世のありとあらゆる存在にとって、エントロピーとは指針であり、カオスこそは目標と言える。・・・まるで新興宗教のような物言いだがw、それは、この宇宙に存在するすべてのものにとっての真実であり、今のところ、それを覆す他の真実は見出せないだろう。(というか、人類にそれを覆す能力が備わったとしたら、それこそ神になることと同義かもしれない)

  • エンターティメントの立場

まどか☆マギカ」の中でエントロピーについて語られたとき、ネットで結構多い書き込みが「エントロピーって一体何?」というものだった。これはとても残念な事だ。物事の真実の大元にある事、それが教育として伝わっていない。そのため、物事の真実そのものを考える機会すら与えられていない。
今の科学はまだまだ発展の余地は大いにあるけれども、それでもこの世界の真実の方向性を示すくらいの事が出来る様になってきていると思える。それによって、哲学も、道徳も、一定の「正しさ」を教える事ができるようなっていると思う。
しかし、実際の教育では何時までたってもその部分は放置されつづけている。そして、そういった知識や心の間隙を補完しているのが結構エンターティメントだったりする。
虚淵氏はおそらくコスモス信奉者なのだろう。もしかしたら一神教信者なのかもしれない。もちろんそういった事は問題ではない。しかし、その立場からエントロピーを題材に「真実」を語ると、問題が出てくる。
コスモスが幸福で、カオスが不幸。だからエントロピーも不幸。しかし、エントロピーは絶対という真実は曲げられないから、不幸の必然は絶対的。その様な「大いなる勘違い」を作品を通じて発信してしまった。作品の最後では「まどか神」という存在が不幸の全てを消してくれる、というファンタジーを提示しているが、それだけは明らかに非現実だという事は、見ている者にも分るだろう。つまり「エントロピーって何?」という者に対して、拭いがたい悲観論を押し付けているようなものだ。これは「大いなる害悪」と言っても良いかもしれない。
今の日本において、エンターティメント作品の担わされている役割が実に大きくなっているように感じる。今の教育で哲学について教える事はほとんど無い。道徳についても実におざなりだ。そうなると、人はTVでやっているエンターティメントに語られている「真実」をそのまま鵜呑みにする。それは、とても危険な事だ。
まどか☆マギカ」は大変面白かった。
物語のスリリングさもさることながら、作品が視聴者に与える影響についてもスリリングに感じる。
作品に、虚淵氏に感化されて「エントロピーに支配されるこの世界において、不幸は必然」とか言い出す若者が増えないよう、願いたいものだ。

P.S.
人とエントロピーの関係について、まどか☆マギカと対極の結末を迎える作品として「トップをねらえ!」を思い出した。エントロピーについて直接語っているわけではないが、人という存在がエントロピーに対してどういう立場を取るべきか、考えさせられる作品だと思う。