アイドルアニメにおける「新人アイドルの泥沼」の回避について〜「Wake Up, Girls!」第1話を観て〜

  • 「新人アイドルの泥沼」とは

アイドルは理想の存在。理想の恋人像を提示し、架空の恋愛感情を抱かせる。確かに、その行為は歌であったりダンスであったり芝居であったりという「芸」を見せるものだけれども、それを通じて疑似恋愛感情(に似たようなものも含む)を感じさせる者であり、それだからこそアイドルと呼ばれる。
つまり、その根底には「異性へのアピール」というものが存在する。それはこの広く遍く老若男女が楽しむようなアイドルブームとなっていてもその中核として有る訳で、逆に言えば、広く知られていない新人アイドルなどは、その中核こそを意識しなければ、アイドルの最初の一歩を踏み出せない。「異性へのアピール」とは、つまりは「性の対象」となること。世間から知られていない新人アイドルが活動をしようとするときには、新人アイドルを専門に追っかけるコアな異性ファンから、性の対象としてどうなのかという好奇の目で見られざるを得ない。
そんなコアファンからの好奇の目は、云わば「新人アイドルの泥沼」だ。まだ広く知られていない以上、アピールは続けて行かねばならない。世間一般老若男女から夢の存在と思われるようなアイドルを夢見ても、その前には、アイドルをより強く性対象として見る、コアファンのうごめく「泥沼」を潜り抜けなければならないだろう。アイドルとして広く遍くアピール出来る力が足りないとなれば、その活動も異性へのアピール部分のみ色濃く、泥沼に深く嵌っていくこともあるかもしれない。
しかし、それでもアイドルとは夢の存在だ。それはアイドルを夢見てアイドルアニメを見る少女たち、アイドルアニメを普通に楽しみたいアニオタにとっても同じこと。そんな「新人アイドルの泥沼」など、人間の汚い欲望などを意識したいと思ってアイドルアニメなど見ていない。
だから、アイドルアニメの多くがこの「新人アイドルの泥沼」をいかにして回避するかと言う事で頭をひねり、設定している。次からは、個々のアイドルアニメを例として挙げていく。

プリティーリズムの世界では、プリズムショーという娯楽が広まっている世界となっている。これは云わば競技と娯楽を組み合わせたものであり、そのリングに立って活躍する者をプリズムスターという。
そういう点では、ある意味この作品はアイドルアニメでは無い。
なぜならプリズムスターは、プリズムショーのリンクという「元々存在する娯楽施設」で「競う」者だから。元々存在する娯楽施設でショーを見せる者とは、例えば遊園地のアトラクションアクターみたいなもの。競うと言う意味ではフィギュアスケートの選手にも近い。どちらも、実は技術が優先していて異性としてのアピールなどは(意識的に)後回しにされる分野だ。アイドルとは近くても異なる存在と言えるだろう。
アイドルものとしては近くても異なる物語なのだけれども、実写パートに少女アイドルを配置することで、昨今のアイドルブームとリンクしている作品と言えるかもしれない。

アイカツの設定上の上手さは、二つある。
一つは、アイドルの活動を、基本的にスターライト学園というアイドル専門学園の活動のみとしていること。本来のアイドルは芸能事務所の営業行為として活動するものだろうけれども、アイカツでは学園活動の一環としてしか行われていない。アイドル活動=学園の活動なのだから、健全じゃない事になる訳がない。
そしてもう一つの上手さがアイカツシステムの存在だ。これはバーチャルで発信することで、小さなハコの活動も外部に提供できるようになっている。その為、コアファンが蠢く小さなライブハウスに直接赴く必要が無い、つまりアイドル達は好奇の目に晒される事が無く済む訳だ。これにより、正に「新人アイドルの泥沼」を回避していると言えるだろう。
実際にはより現実味を出すためかアイドルと世間の交流も描かれており、例えば握手会の様子が描かれたりすることもあるのだが、やはりそれは少しファンタジーが入っていたと言えるだろう。

これもまた、アイドル活動=学園活動にすり替えた好例と言える。
スクールアイドルという設定で、あくまで学園対抗でアイドル活動を行う。その活動は学内もしくは大会でのみ行われるらしく、アイドル達にも商業活動としての意識を持たせない。ネット配信というツールによって、かろうじて世間からの人気を推し量ることが出来るシステムだ。
この作品の奇妙さは、学園の外の様子がほぼ描かれていないこと。秋葉原にグッズが並ぶなど、どうやら世間的に強く注目されている様なのだけれども、具体的な主人公たちに対する世間のファンの描写はほぼ無く、彼女たちが世間からどのように見られているかは不明瞭。そのあたりを物語から全く排除していると言って良い。
設定以外でも、アイドルの理想以外の描写を演出で意図的に排除し、逆にそのあたりを視聴者自身の意識に肩代わりさせる上手い方法と言える。

アイドルマスターは、元々現実のアイドル活動をゲームで再現させようと生み出されたコンテンツなので、設定上での逃げ道は無い。
だから、「新人アイドルの泥沼」に近しい描写があって当然。しかし、作り手は演出面で意図的にそれを排除し、地方の牧歌的な場所での活動を描くなどして、「性対象」などを出来るだけ意識させない作りをしている。
逆に言えば、アイドル達のファンに対する意識の描写が少し疎かにならざるを得ない演出ではあるのだが、それでもこの作品のターゲットがそのファンを含む層そのものなのだから、現実味の無い描写でお茶を濁すよりも正解と言えるだろう。
また、アニマスはアイドルとしてのアイデンティティを正面から問う物語としており、それはファン描写の有無が関係ないテーマでもあるので、望ましい構成だったと言える。

  • アニメで「新人アイドルの泥沼」を描くとき

この文は「Wake Up, Girls!」のTV第1話を見たからこそ書いたもの。どうやら「Wake Up, Girls!」では「新人アイドルの泥沼」を真正面から描こうとしている気配がある。
アニメで「新人アイドルの泥沼」を描いた作品として真っ先に思い浮かぶのは「PERFECT BLUE」だろうか。結局、あの物語ではアイドルはある程度否定的に描かれていたと言えるだろう。
「新人アイドルの泥沼」を取り上げつつ、尚且つアイドルを肯定的に描いたものとしては、「GTO」のグレートとろこおっぱい編が挙げられるかもしれない。鬼塚の気紛れな指示に従い無自覚に性的アピールもしてしまうとろこだが、しかしそれによって世間に知られ、彼女自身の純真さも手伝って大ブレイクを果たすというアイドルのカタルシスを描いている。
「新人アイドルの泥沼」を描く以上、それに見合うだけの素直なアイドルのカタルシスが提示できなければ、娯楽としてのアニメとしては失格だろう。しかし、「Wake Up, Girls!」のメインヒロインは既に成功しているアイドルでありつつ別の形で再デビューするなど、その成功の意味も問う物語となっている。
「Wake Up, Girls!」は、アイドルアニメとしてかなり困難な道を進んでいる気がする。今後の動向に注目したい。