ユリ熊嵐 最終話 〜負ける事を赦す物語が辿り着いた場所〜

イクニが何を描こうとしているのか。それは作品の表層を見ても分からない。
精神世界をそのまま実体化させたような極度に抽象化された世界。そこで描かれているのは、精神世界そのものだからこその真実なのかと思いがちだ。
しかし違う。精神世界そのものだからこそ、そこでは自身でも分かり得ない想いが隠され、真実そのものを描けなくする。
少女革命ウテナは、世界の革命を銘打ってはいたものの、その実は個人の心の革命として、個人の心が世界に向き合うための心の解放を描いていた。一人の純粋な心を持つ少女が、一人の世界から暗い闇を与えられた少女と出会う事で、そんな自身の知らない残酷な世界と対峙する。
輪るピングドラムは、世界を壊そうとした親という原罪を持つ兄妹が、世界からその罰を受け続けていく物語。世界と対峙する事を宿命づけられた存在だからこそ、その世界を救う道が見出せるかと思えばそうでは無く、兄妹の定められた宿命の結末のみが語られる。
ウテナの結末は、見えていない。個人の心の物語だから、その個人がどうなるかで結末は分かろうものなのに、ウテナの心に平穏があったように思うのだけれども、それが何を意味するのかは分からない。
ピングドラムの結末は残酷だ。確かに兄弟たちの心の平穏が描かれたようにも思うのだけれども、それは世界から排除されたバショでの話。ピングドラムが世界を描く物語だとすれば、その世界の結末については描かれてはいないと言える。
いや違う。描かれてはいるのだ。それは主人公達の心に平穏があったとしても、それ以外が「描かれていない」ことによっても明らかだ。
そこには、心の平穏とは逆の「敗北」しかない。
ウテナは極度に純粋な心を持つが故に、その純粋を持ち続ける為には現実から逃れるしかない。
ピングドラムの世界は、原罪を持つが故の兄妹を排除し、何もなかった世界を繰り返す。
現実の醜さと宿命の残酷さは依然としてそこに存在し、美しい存在はただ敗れ、現実世界から削り取られて消えていく。それだけが描かれている。
イクニの描く世界とはそういう世界だ。美しさが現実に敗れる世界。
そして、その美しさはただ心の世界に安らぎを求めることだけが赦されている。
ユリ熊嵐は、正にそんな世界をより明確にした、真正面から語った物語だろう。
世界の革命とかは、もう最初から関係ない。世界と対峙して負けることは分かっている。
ただ一つだけ、心の平穏、自分以外の存在の「スキ」だけが欲しい。
そう、純粋でいる以上、心の平穏だけしか手に入らないのだとしても、そのたった一つの心の平穏こそが手に入れることが難しい。ユリ熊嵐では、その「スキ」を得るための葛藤が延々と描かれることになる。
そこは、最初から負けることが赦された世界だ。世界との戦いは最初から負けている。ただ、その世界で「スキ」を得る戦いだけが繰り広げられている。
それは今までのイクニワールドの中でも最も甘い世界だ。それはそうだろう。既に決着のついている「世界との戦い」などという不純物は無意味なものとして意図的に排除され、「スキ」を得る戦いの崇高さだけが語られるのだから。
ただスキだけを得る戦いという究極的に純粋な世界。これこそ、現実世界から負けることを赦し続けたイクニワールドの、究極の物語と言えるかもしれない。