ラブライブ劇場版考察 演出意図から考察する謎の女性シンガーの正体

ラブライブ劇場版に出て来た女性シンガーは一体何者なのか。穂乃果以外の人には見えず穂乃果の事を予め知っていたかのような言動。そして何故か二本有ったマイクなど、多くの謎を残している。この女性シンガーの正体を誰もが考察し、その答えを探している状態だと思う。
実際には、これには明確な答えが出ないというのが正解だろう。短い上映時間の中でどこかに引っかかりの残る部分を作るのは演出の常套手段。さらに言えば、原案者である公野櫻子作品は今迄にもこういった説明のつかない設定を作品の中に多く残してきている。非常に精神性の高い部分でのみ感覚的に感じられる「何か」を提供してくれる作品を作ってきており、ラブライブもその列に並んでいるだけと言える。
しかし、それだけに、この女性シンガーが何を意図して設定されたのかは明確に出来るだろうし、しておきたい。
女性シンガーが穂乃果の未来像である、というのは誰もが感じる事だろう。異国の地に来た穂乃果が超常的な現象によって未来の自分と出会った。そして、未来の穂乃果=女性シンガーもその事を記憶しており、過去の自分に対してアドバイスをしている。そう考えるのが自然な描写と言えるし、そういった解釈で良いのだろう。
問題は何故そのような事が起こったか、ではない。なぜそのような描写が物語の中で描かれたかだ。
それについては、映画のエンディングテーマ「僕たちはひとつの光」の歌詞に書かれていることからも読み解く事が出来る。
「時を巻き戻してみるかい? No いまが最高」
穂乃果は一つの迷いを抱えている。それはμ’sを存続させずここで終わらせて良いか。その迷いに対して納得の行く気持ちが欲しい。
女性シンガーは穂乃果の未来の可能性だ。彼女がμ’sを決断どおり解散させた後の穂乃果か、それとも解散させずに他の理由で別れた後の穂乃果なのかは分からない。
ただ言えることは、女性シンガーはただ穂乃果に自分自身の気持ちに従うようアドバイスしたこと。未来の穂乃果にとって、そこで「時を巻き戻す」事が出来るかもしれなくても、その選択をしなかったこと。
これが時間遡行の一種だとすれば、もしかしたら過去の自分にその決断が間違っていると伝えて、μ’sを存続させる未来があったかもしれない。しかし、そんな未来を何度繰り返したとしても、結局は今の決断どおりの方が良い、ここでμ’sを終わらせる方が良いという結論に達したからこそ、ここでの女性シンガーはこのような未来につながる言葉を残したのだという事が出来る。
(追記:もしかして説明不足かな。時間遡行一回だけだよね、と思う人がいるかもしれない。けれども、過去の自分に干渉できるという事は、そこで何かをした自分としなかった自分が重なって同時に存在しているという事。無限の重なりのある量子論的な存在になっているといえる)
つまり、女性シンガー=未来の穂乃果の存在は、μ’sをここで終わらせるという決断に対して、他に選択肢の無い、最善にして唯一の決断だったということを承認させる意味があったと言えるだろう。
なお、その後もう一度出てくる女性シンガーについては、より精神性=非存在性が高まっている。より強い決断に迫られている穂乃果の状況に応じて、その窮地に対して「精神世界から呼ばれた」と言っても良いだろう。実際に対面場面から精神世界に移行して、結局は夢から醒めている。
改めて考えるのだけれども、穂乃果にはやはり特別な力があるのだろう。多くの人を動かし、誰もが出来ないと思えた学校の存続を可能にする程の強力な精神力。その精神力をもってすれば、異国という特別な場所にいって何かのきっかけがあれば未来の自分に接続するような超常的な能力もあったのかもしれない。そして、その未来の自分も穂乃果自身なのだから、自分の一大事に対して夢の精神世界から見守り続けており、決断の危機的状況の時にはその召喚に応じたのかもしれない。
しかし、その一大事を見守って、あるべき道に辿り着いたことを確認したとき、花弁を残して本来の場所に戻っていったのかもしれない。
ラブライブは、今までのアニメ史上でも類を見ないほどの成功をおさめた。その外的状況自体が、ある意味夢か現実か定かでないほどの現実離れした状況とも言える。そんなラブライブという物語だからこそ、穂乃果という主人公も特異な存在に成っていった。
物語は三年生の卒業と共に終わりを定めているというのに、その最後の瞬間までより大きく、高みに行く事を求められた。それはより人間離れした超常的な状況だ。
穂乃果は、そんなラブライブという奇跡的な物語において、正に超常の存在として求められ、そのような存在に昇華したと言えるだろう。
そして、そんな奇跡的な存在となった穂乃果にならば、この「絶対なる終焉」についても決して「絶対ではない」という思いも湧き上がってくる。
今も穂乃果の中の人はμ’sは解散していないと言っている。その意味は分からないけれども、奇跡は何時だって起こりえるのではないだろうか。