リリカルなのはシリーズの疾走感

なぜSSは10年後なのだろうかと、つくづく考えている。
魔法少女物」として始まったこの作品が、舞台を十年後に移し、主人公達を少女と呼べないほどの年齢にする理由がどこにあったのか。
一つには、なのは達が9才の頃から、既にとても大人びた性格をしていたり、彼女達が関わる事件がその年齢で体験するにはあまりにハードである事から、そのギャップを無くす意味があったのかもしれない。少女が世界を救うという設定はあまりに漫画的、オタク的でで一般性が無いと判断した、と言う事も考えられる。また、年端の行かない少女が過酷な事件に巻き込まれる描写は確かに視聴者の注意を惹くが、より激しさを増せば行き過ぎて、悪趣味と取られかねないと考えたのかもしれない。
けれども、そのような心配ならば、前作A’sのラストでもある15才設定でもクリア出来たのではないだろうか。小学校低学年ならまだしも、高校生程度ともなれば、大抵の物語の主人公になり得る。成熟した大人であるよりもより魅力的な描写も出来るかもしれない。
それを思うと、SSはスバル達新ヒロインを中心に据える事を前提に物語が構築されているようにも思う。既にキャラとして完成してしまったなのは達ではなく、より大きな夢や希望を持っている年若いキャラにメインヒロインをまかせ、物語に推進力を付けている。
しかし、やはり腑に落ちない。それならば、なぜその「夢や希望を持っている年若いキャラ」をなのは達に任せることは出来なかったのか。なのは達も決して完成したキャラでは無かったはずだ。地球のごく普通の少女が、例え人一倍魔法の才能があったとは言え、次元世界、ミッドチルダに入り、そこで一角の地位を築くには、それなりのドラマがあっただろう。なのは達も充分「夢や希望を持っている年若いキャラ」として描けるはずだ。それなのに、彼女達を差し置いて新ヒロインを登場させている。なのはは言うまでも無くこのシリーズの主人公だ。その彼女達のより密度濃く物語を描ける時代を飛ばすという、これほど勿体無い、果断な決断を下す理由は何なのだろうか。
結局、なのはシリーズは停滞を嫌ったのだろう。
一度物語が始まり、その世界観が語られ始めると、その瞬間からその世界は刻々と鮮度を失っていく。その為、良質の物語は、その鮮度を保つ為に、意図的に時間経過を促進したり、舞台を変えたりする。
「無印」では、当初地球世界における魔法と怪物退治がメインの世界観だったが魔法使い同士の戦いへと発展し、「A’s」では地球世界における魔法使い同士のバトルロイヤルが発展し、両シリーズとも最後には世界崩壊を救う展開になった。
当然「SS」ではこれより発展した描写が必要になるが、それはもう、前作の様に地球世界に拘っているとかなり難しい。もし描くとすれば、地球世界から離れる必要があるだろうが、なのは達が9才である以上それは難しい。その時点で「9才であるなのは達」は次回作主人公足り得なかったのかもしれない。「A’s」最終回の6年後の描写は、「地球世界で描ける事は終った」というサインであったのかもしれない。
そして、そのサインを描いてしまったため、物語に加速がついた。それは、時間経過の加速と、舞台移動としての加速である。しかし、このシーンはもう一つの事も描写していた。つまり、なのは達は6年後も今までと同じようにやっているという事。それはそれまでのシリーズを見てきたものとしては望んでいる描写であろうが、一度ついてしまった物語の加速の中では、一種のブレーキとなってしまう。
一度ついた加速をそのまま生かして新たな物語を構築したいであろう作者の思考の中では、関係性が変わらない、既に完成したキャラとして描かれているなのは達は、異質な存在に感じたのかもしれない。だからこそ、新たなメインヒロインを導入する必要もあったし、あくまでシリーズの看板であるなのは達も別の立場でメインでドラマを作り得る程度の時間の経過も必要になったのだろう。
今、アニメは大量に作成され、消費されている。その中でもかなりの成功を収めたなのはシリーズだが、続編であるが故の強さは、逆に、鮮度の無さ、期待への裏切りなどによって、途端に弱点にもなる。少しでも手を抜けば他の凡百の作品の中に埋もれかねないだろう。
そんな厳しい時代の作品であるからこそ、メインヒロイン達の時間を飛ばすという厳しい決断をしてでも、物語に勢いをつける必要があったに違いない。
そんな、なのは達の少女時代の大部分という貴重な時間を使って得たシリーズの疾走感を、今作がいかに生かして物語を描いていくのか、心して見ていきたい。