アニメ「ひだまりスケッチ」3つの魅力 その3 〜伝わる感動、全体テーマ〜

前回のテーマ「擬似家族」については、どうにも語りたい事が多すぎてまいった。各話についても語りたいし、各キャラについてももっと掘り下げたいのだが、いつまでたっても書き終わらなくなりそうなので、あのあたりで打ち切った。それほどまでに「ひだまりスケッチ」は、主要キャラ四人の「擬似家族」としての係わり合いの魅力に溢れているといえるだろう。
とまあ、ここまで「ひだまりスケッチ」の「見て嬉しい」直接的な魅力について語ったわけだが、ここからは、もう少しこの作品の本質について語ってみたい。とはいえ「愛」が暴走気味で、とんでもない展開になりそうだが。

「擬似家族」描写でニヤニヤしたり、幸福な気分にさせてくれる「ひだまりスケッチ」だが、この作品を見終わった後、それ以上の、なんとも言いようの無い深い感動を感じる事がある。
その感動の正体は何なのか? 当初から考えていたものの、なかなかその答えが見つからないでいる。ここでは、それについて今現在感じている事を書いてみたい。
この作品の主人公は「ゆの」だ。ひだまり荘に住む彼女の視点からこの物語は語られている。
彼女は、高校生にしては少し(かなり?)幼い容姿と性格をしている。けれども何事にも素直で、物事にとても真剣に取り組む人格であり、彼女の存在が物語をとても心地の良いものにしている。
この「ひだまりスケッチ」という物語は「ゆの」という人格を描く為にあり、先に語った「擬似家族」としてのひだまり荘は、いわばそんな「ゆの」という人格を物語として受け入れる「器」のようなものと言えるだろう。
この物語が与える感動は、やはり、彼女の存在があるからこそのものであろうと思える。

  • ゆのの「目的」

ところで、そんな彼女の学生生活における「目標」はあまり明確ではない。どうやら「絵が好き」という理由でやまぶき学園の美術科に入学したが、明確な将来設計を持っている訳ではない。ひだまり荘への下宿も、単にやまぶき学園に入学したからであり、特に一人暮らしをしたかったからという理由でもないようだ。彼女のひだまり荘の下宿を含む学生生活の全ては、単に「絵が好き」という実に曖昧な理由だけで成り立っているように思える。それは一見「学生時代に少しでも遊びたいから」とか「他にやる事が無いから」とか「制服が素敵だから」とかで学生生活を無為に過ごしてしまう、現実によくいる、お気楽な学生と同じような風にも思える。
しかし、物語を重ねるにつれ、それが間違いである事に気付く。彼女は「具体的な」将来の夢を未だ見出してはいないようだが、ただ一つだけ決めている事があるように思える。
それは「絵の仕事で生きていく事」。
ゆのは、自分が将来どのような仕事で生活できるのか未だ分からずにいるが、「好きな絵で生計を立てたい」というしっかりとした「目的」を持っていると思われるのだ。
それは、一度創作に関する場面に対した時の彼女の態度からも分かってくる。自身の創作活動はもとより、卒業生の先輩に会った時もそうだし、沙英が既に自分の仕事を持っている事を知った時そうだ。
そして、面白い事に、このことに関して彼女の成長は見えない。いや、彼女の作画技術とかは当然上がっているだろう。しかし、彼女のこの「意志」は、最初からしっかりとしているので、変わりようが無いのだ。この事は、他方ひだまり荘の人間関係を「擬似家族」として成長させていった事と対になっているようにすら感じる。
ゆのの絵に対する思い。それは「ひだまりスケッチ」における不動の核として存在している。

学園生活というモラトリアムな時期は、多くの作品において一種のユートピア=楽園として語られている。特に「ひだまりスケッチ」においては、その生活において「擬似家族」という「完全な輪」の人間関係が完成していて、そのユートピア性は非常に強く感じる事が出来る。
さらに言うと、彼女達の通っている学校は美術科であり、彼女達が学ぶべき事は「趣味の延長」としての意味合いもある。これを漫画やアニメで見る場合、当然、その「漫画やアニメ」の世界との関連性も深く感じさせる。「漫画やアニメ」・・・つまり日本のオタク文化の基本である。つまり、ゆのたちの居る世界は、この作品を見る者にとって「オタクのユートピア」にいるかのような感覚すら与えるのだ。
それは「げんしけん」であったり「ドージンワーク」であったり、はたまた「らきすた」に見る「オタクのユートピア」とも同じ要素があるのかもしれない。
しかし、「ひだまりスケッチ」は、それらの作品と一線を画した感動を与えてくれるように感じる。そして、その理由は、おそらく「ゆの」という核の存在であろうと思われる。

  • その楽園は開かれているか?

今、オタクの巷で流行っている作品の「理由」は何か?最近の流行として「オタク文化の積極的な肯定」があげられるだろう。
10年も前、エヴァンゲリオンで拡大したオタク文化は、そのエヴァという作品そのものから否定されてしまう。この時洗礼を受けたオタクたちは、心に傷を負いながらくすぶり続ける事になる。これが世に言う「エヴァ・コンプレックス」だ。
しかし、「電車男」のヒットによってオタク世界は反転する。オタク自身は負い目を持っているのに、世間ではオタクを持て囃す。ここに「オタクの自己肯定」への欲求が噴出する事になる。それが「オタク文化の積極的な肯定」として物語に反映しているのだ。
ハルヒ」においては、主人公きょんは世界全体が「オタク的」に変容している事をいやでも肯定しなければならない状況に追い込まれる。そして、きょんもその状況を知らぬ間に受け入れてしまう。
らきすた」においては、あからさまに「オタク生活」の賛歌である。オタクエリートとしてのこなたの行動に、回りの人間も巻き込まれていく。
しかし、これら「オタク賛歌作品」において、共通する事がある。
それは、その楽園には終わりがある、ということ。
今現在も続いている作品にはまだ終わりは訪れていないが、それでも結果は見えている。彼らのユートピアはあくまで一時のモラトリアムであり、それは未来に連続していかない。
もしかすれば、こなたなどは未来にわたってあの「ユートピア」に居続けるのかもしれないが、それが本当に良い事になるのだろうか。それは、本当の意味での未来が見えない、出口の無い「デストピア」に迷い込んでしまっているのかもしれない。
「オタク」とは一時の享楽を貪る者。そのような一般論的「オタク像」から派生した「オタク賛歌作品」はどこか物悲しい。そこには根本的に「オタクは一種の気の迷い」という刹那的な意識があるからなのだろう。

  • 救世主「ゆのさま」=???

そこで、ゆのさまの登場である。
驚くべく事に、この主人公は最初からこのユートピアからの出方を知っている。
それも、そのユートピアに居続ける事を諦めて空しく去るのではない。より大きな夢に向かって、そのユートピアを単なる足がかりにしてしまおうとするのだ。
「未来に続くものこそが夢」であるとするならば、この作品こそ真の意味での楽園であろう。真の意味での「オタク賛歌作品」と言っても良いかもしれない。
この作品の主人公ゆのは、登場した時からその志を胸に秘めて、淡々と日々努力し続けている。それは、凡百作品において、多くのキャラクターが寂しい結末しか予感させないのとは違い、見るものに強く納得させる感動を与えてくれる。
「この道を通れば、本当の楽園にたどり着く事が出来る(出来た)」と信じる事が出来るからだ。
ゆのは楽園への道を指し示す救世主のような存在といってよいだろう。
・・・
そして、その信じる心は、漫画を超え現実の物として証明されている。
イベントなどで「ひだまりスケッチ」の原作者 蒼樹うめを目撃したファンは一様に息を呑む。そこには、ゆのをそのまま現実にしたような、とっても小さな女性が居るからだ。ゆのはまさにうめ先生の分身なのだろう。
オタクにとって今一番の萌えキャラクターは誰か。もしそう訊かれたら、私は即答できる。
オタクユートピアの道を指し示す救世主「うめ先生」だ。
それはもう絶対。(・・・うわ、すごい落ちw。)

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