「らき☆すた」は誰を解放するのか?

今年の夏はらきすたの勢いが凄かった。実際、コミケ72においてはそれはもう昨年のハルヒを駆逐するほどの勢いだった。
らきすたはオタク礼賛作品だ。その目的が非常に明確な作品と言えるだろう。
実のところ、ハルヒも同様の目的の作品だった。ただし、ハルヒの場合は、オタク的な考え方「不思議な事があってもいい」という事を認めるだけの作品であり、ある意味精神的なオタク礼賛作品として、ストレートなオタク礼賛であるらきすたより、その目的面で影響度が薄いとも言える。だからこそ、まるで上書きされるかのようにハルヒらきすたに駆逐されているのだ。
ともあれ、今はそんなオタク礼賛作品が流行っている。これは何故か。
おそらくは、世間がオタクという文化を認め始めている事、その現象自体を作品として追体験したいからだろう。
これには、この作品を見るオタク自身の周囲において、未だ「オタク文化を認める」という空気、つまり自身が得する事があまりない事もあるかもしれない。
まあ、それは当然だ。オタクはマスコミ的にはもて囃されているものの、実際にはアングラ文化、その下流に位置する者を、面白がって取り上げているだけに過ぎない。いや、実際の所、その人数、勢力は一般人を凌ぐ勢いがあるので、取り上げざるを得ないでいる。それでも、オタク文化は、エロ・グロ・ロリコンと親和性の強い、軽蔑すべき趣味という位置づけには変わりが無い。だからこそ、オタクはたとえ多数派になりながらも、そう簡単には人から認められず、大多数のオタクは、マスコミ上の活況とのギャップに悶々とせざるを得ない。そんな状況だから、「一般生活の中に」オタク礼賛のある作品に惹かれるのだ。
そんなオタクは、多分、こなたを自分の分身として、この作品を楽しんでいる事と思う。
とまあ、ここまでは世間でもよく言われる説だ。
最近、そんなこなた視線のディープなオタク以外にも、らきすたを見る者がいるかもしれないと思い始めた。
この事を最初に思いついたのは、コミケ72二日目の乙女ロードにて。
この日の乙女ロード、つまりアニメイト池袋本店付近は、とんでもない状況になっていた。コミケ帰りの乙女オタク、所謂「腐女子」が、「乙女ロードバスツアー」の名の下、大量に押し寄せていたのだ。ここで「女子率99%で満員のアニメイト」という異常な現象に立ち会ってしまったw。
ただ、そこで気が付いたのは、この大量にアニメイトに押し寄せている女子が、世間でよく言われる腐女子的なタイプではなく、ごく普通のとても若い層であった事。いわば、つかさやかがみの様な一般人が大量に押し寄せていたようなのだ。もちろん、その中には年季の入った腐女子も居ただろう。けれども、どう考えてもそう見えない一般人が多かったように思う。
これは一体どういう現象か?
思うに、マスコミ上ではオタクが持て囃されている。それに踊らされた、マスコミに影響されやすい若年層が、いってみれば「にわか腐女子」として乙女ロードに大量発生しているのではないだろうか。
彼女達の心理を考えてみる。
世間ではオタクの勢力が凄い。それを知らないとまるで時代に取り残されているかのようだ。事実、自分の父母にも昔オタクだった気配がある(w)。自分も染まらないといけないかも知れない・・・
というような、危機感すら感じているかもしれない。
そのような「にわかオタク」にとってらきすたは実に最適だ。
この後も本格的なオタクを目指したいならば、こなたと言うオタクの見本を見て、その立ち居振る舞いを見習う事ができる。
または、自分はそんなオタクにはならず、付き合いだけにしたいのならば、かがみの対応方法を見習う事が出来る。
そう、らきすたには、ディープ〜ライトオタクの為のこなた視点の他に、ライトオタク〜オタクの隣人の為のかがみ視点も用意されているのだ。
これは言わば、らきすたがオタクという現象に付き合わざるを得ない人間全てに対するマルチエンターティメントである事を意味している。オタク文化という、人によっては得体の知れない巨大で不気味な現象を、誰にとっても娯楽とする術を提供し、その脅威から開放する作品なのだ。
らきすたは、オタク文化礼賛社会日本にとって、現れるべくして現れた作品なのだろう。