ef−a tale of memories.のEDから妄想する物語世界

最近、「ef」が面白い。
この作品、当初は、尖がり過ぎた演出と、偏りのあり過ぎるキャラ設定に思え、それほど期待はしていなかった。しかし、尖がった演出は、より鋭利さを見せていきながらも、ストーリーと密接に絡み合うし、偏りのあるキャラ設定も、キャラ同士が交錯していくにつれ、物語の全てに関連しているように思えてきた。欠点と思えたところが、実は最初から作品をより高密度にする要素として、有機的に機能していたという事だろう。これには恐れ入った。
特に、第7話において主要3人のヒロインのED映像がそろい、それを観る事によって、よりこの「ef」という世界の構造を想像する事が出来るようになって来た。というのも、この3篇のEDはどれも暗喩に富み、各キャラの持つ「属性」を、実に的確に表現していると思えるからだ。
この作品は、PCゲームのアニメ化とは言え未だ全編が公開されておらず、完全な世界観は分かっていないようだ。(もちろんPC未プレイ。それなのにこんな長文書いている俺って…w)もしくは、アニメオリジナルの展開になる事もあるのだろう。今、この時点でどのような妄想をする事も可能というものだ。ここは大いに妄想を繰り広げ、この「ef」という世界の設定を考察してみたい。(・・・つまりこの文は、最長でも「ef」最終回までの命。w)

  • 辺境、そして最下層の少女「宮村 みやこ」

まず、最初に確認しておきたい事は、「ef」という世界は、「記憶障害」という特殊な事情を持つ「新藤 千尋」というヒロインを世界の中心に持つ物語だという事。千尋という特異な存在が、全てのキャラの恋愛模様に影響を与えている。実際の所、群像劇として描かれる物語の当初は、彼女の存在は特異すぎてバランスを欠いている印象すらある。千尋の影響が他の全てのキャラクターに及んだ時、初めて物語世界が一つのまとまりを見せてくる。
そんな千尋の影響の及ぶ世界において、宮村みやこはある意味「辺境」に位置する。みやこの立ち位置は、記憶と左目を喪失した千尋、それによって心象風景から一色を無くした広野紘、そして、そんな彼に惹かれる、心象風景から「全ての」色を無くしているみやこ、という関係だ。千尋とみやこは直接のつながりは無いが、そこには深い関連性が存在する。
第7話において、みやこの心象風景が描かれ、彼女の本質が語られるシーンは実に衝撃的だ。それにより、過去の記憶を失い続け「決して傷付かない」少女=千尋と、過去の記憶により「深い傷を負っている」少女=みやこ、という二人の少女が対比した存在となり、物語が一つに組み上がった、といっても良いであろう。
そして、その回のEDも、みやこという存在を実に明確に描いている。
まず、風に吹かれる風車が数本描写されるが、一本が赤色で、他は全て白色。この赤は特異な存在、みやこを意味しているのだろう。ところが、背景の色が少しずつ赤色になっていくにつれ、みやこの風車は消えてしまう。そして、風車自体が暗くなるにつれ他と同じ黒色になる。この1カットのシーンだけで、みやこという、一見特異な存在が、実は状況に応じては消えてしまうほど脆い物で、その実態は、他の存在とまったく変わりが無いという事を、一瞬で表現している。
ススキと風車が風に吹かれる中を一人佇み、逆らって歩くみやこは、世間の風とは無関係な存在。そこでは彼女も無表情なままだ。
そんな彼女が「何時か変わるかな?」という歌詞と共に微笑みを向ける。これは当然、紘に対してだろう。この時、注目すべきは、背景に在る「波紋」の一部。この波紋は、千尋のEDで千尋自身が発している波紋がみやこに到達している物だと見ることができる。しかし、その一瞬の笑顔もすぐに吹き飛ばされる。
紘との逢瀬の場所である学校の屋上の扉を、必死に開こうとして開けられず、崩れ落ちて泣くみやこは、まさに7話における彼女の状況そのものだ。
前と同じく表情の無い存在に戻ったみやこは、しかし、どん底の世界で、ただ雨に打たれて、世界を見上げる存在になる。誰よりも自立的に生きているように見えたみやこだが、実際には、常に心を閉ざし、いつか誰かに「引き上げて」もらう事を願う、実にか弱い存在であった、という事が明確に表現されている。

  • 全ての原因にして、中立の少女「新藤 景」

景は、幼少の頃、双子の妹千尋と共に広野紘と仲良くなる。そして、紘が自分より千尋と親しくなっていく様子に焦りを感じ、抜け駆けをしようとした結果、千尋は事故にあい、左目と記憶を失ってしまう。いわば、この世界の「原因」を作った人物でもあり、最も罪悪感を抱えている存在でもある。
しかし、景自身はその罪悪感に負けることなく、懸命に生きようとしている。罪悪感に捉われて自身が停滞しても、誰も救われないという事を理解しているのだろう。彼女はとても健全な存在であり続けようとしている。
それは、景を描いた4・5話のEDでストレートに表現されている。
景が全力疾走している姿が延々描写される。それは、他の存在が千尋に関わる事により、どうしても歪んでいってしまうのに対して、自分は千尋の「片割れ」として、健全に行き続ける義務がある事を承知しているかのようだ。一卵性双生児として、千尋と自分を単に被害者と加害者として「区分」するのではなく、あくまで「同一体」と見做している感覚から来る物なのかもしれない。
彼女はみやこが紘に近づいていくのを嫌う。それは、みやこに千尋とは別種の「ゆがみ」を感じているからだろう。しかし、そのゆがみが千尋と「対になる物」だと感じた時、彼女はどう思うのだろうか?
彼女は、表情を持たず走り続ける。誰からも、見下ろされたり、見上げられたりする事も嫌う。ただ真横から見られ、誰に干渉される事なく走り続ける。
しかし、最後のシーンでは、その裏に悲しい涙が潜んでいる事が表現されている。

  • 世界の中心、見上げられる存在、そして鏡像の少女「新藤 千尋

ここまで、何度も書いたように、千尋は「ef」という世界の中心的存在である。彼女の持つ「記憶障害」という要素が、他のキャラクターに特異な影響を与えているのは間違いない。
しかし、そんな千尋の願いが「小説を書くこと」である事が明らかになり、実際に彼女が描くその小説の世界が物語に現れるにつれ、「ef」という物語世界そのものが、大きく揺らぎはじめている。
「ef」という世界には、千尋の他にも特異な存在が幾つかある。一つは火村夕と雨宮優子という二人のキャラ。彼らは、時に存在自体が実在の人物なのか怪しくなるような描かれ方をしている。もう一つは、過去に震災にあい、そこからヨーロッパの美しい街並みとして復活したという、現実味の無い音羽という街。火村夕、雨宮優子と音羽、そして新藤千尋と小説世界、それらが関係しているかのように感じさせ、この「ef」という世界全体が、虚構と現実の境界の曖昧な不可思議な物語となっている。
6話における千尋のEDを見てみる。
最初に時計が出てくる。時刻板は書き足されていくが、それを追いかけるように12宮板によって消されていく。12宮は星座=運命を表し、千尋の時間が短い時間で運命によって消され続けている事を表現している。しかし、その彼女を意味する時計は即座に掻き消える。それは、新藤千尋の本質が、このような時計にあるのではない、という事を訴えているかのようだ。
実は、このEDにおいて、とても強いイメージを出しているのは「鏡像」だ。
一人歩く千尋のまわりを幾つもの影が回る。これは、回る影は時を表し、その複数の影は「その日の」彼女の記憶を意味している。その影の一つ一つが連続しない彼女の記憶と言えるだろう。しかし、それは同時に、本質としての千尋と、影として映っている千尋、二つの存在がある事を表す。
水面に座り波紋を生じさせる裸の千尋。この波紋こそが、「ef」という世界そのものに与えている千尋の影響の象徴である事は、前述したとおり。そして、その水面にも千尋の影が映る。
逆さまに映る千尋。この時、千尋の眼帯は「何故か」左目にある。
逆さまに映っているのであれば、それは鏡像。ならば左右逆になるはずだ。水中を昇る水泡もそれが鏡像である事を示している。しかし、ここに居る「裸の千尋」は右目に眼帯をつけている。つまり、「裸の千尋」自身が鏡像としての千尋なのだ。
そして、吹き上がる物語世界。千尋という存在から、物語が噴出している事が表現されている。
そんな千尋は、自らが発したはずの波紋世界の上を歩くが、その前には「鏡像であるはずの」千尋が佇み続ける。彼女の本質は一体どこにあるのか。左目眼帯の千尋が本体なのか、右目眼帯の千尋がそうなのか? いや、それ以前に、左目眼帯の千尋が居る音羽という街と、彼女が作り出した物語世界のどちらが現実なのか? 
千尋という存在は、自身の記憶を日記の中に「文字として」収めている存在だ。それと、彼女が小説の中に描く、物語の中に「文字として」存在している少女に、どれほどの違いがあるのか?両者は同等であり、それは同時に、全ての人間が信じている「自分が自分である事」に対する、強烈な疑問の提示にもなっている。千尋に接するという事は、その「人として生きる術としての迷信」を壊される事になる。第7話において蓮治が彼女に恐怖したのも、その事に気付いたからなのだろう。
そのような、物語と現実、本体と鏡像という二重の意味を持つ千尋のような存在が、音羽という現実感の喪失した世界にいるという事実。それが一体何を意味しているのかは、まだ明かされていない。
最後のシーン。千尋は空を見上げているが、その空は晴れていて、千尋自身も見上げられている。それは正にみやこEDとの対比となっているだろう。千尋自身が、世界に波紋を与える、見上げられる存在(女神的な存在)なのに、彼女自身も空に対して祈りを捧げている。それは、千尋自身も運命の神によって、この音羽の街に存在している事を意味している。
この「ef」という世界、つまり音羽という街が、一体どういう存在なのか? 
そして、その街に住む住人を見守る火村夕と雨宮優子も、一体何者なのか? 
それが解明された時、初めて「ef」という物語世界は完成するのだろう。
いやはや、最終回まで目が離せなくなってきた。