「ネギま!」創作の源泉は?〜物語は作者の欲望を反映する〜

最近、「ネギま!」のストーリーについて、疑問を投げかける人が多いように思う。
「学園を描いていない」「クラスメイト達を描いていない」「クラスメイト達が酷い事をされている」「ネギはうじうじ悩みすぎる」「ネギはもっとクラスメイト達の事を考えるべきだ」「ネギがクラスメイト達の事を考える為に彼女達を殺せ」等など。
これらは、「ネギま!」という物語が、「萌え漫画」としては最長とも言える,20巻200話にも達しようとしている中で生まれた、物語上の「歪み」を読者が感じているからだと思う。
ここでは、「なぜその歪みが生まれたのか?」という事を話題にしてみたい。というのも、今回198時間目に、その事が明確に表現されているように思えたから。

  • 歪みの源泉「ネギの性質」

現在、「ネギま!」という物語がこんがらがっている理由の中心は、やはり主人公であるネギだろう。彼の特異な性質が物語を複雑にし、それが読者にとって「歪み」と感じるようになってしまっている。ネギの特異な性質とは、「強さを求める事」「その追求はとても執拗」「自分の死すら厭わない」という、かなり歪んだ彼の行動原理の事。これが今回明確に描写されていた。
「自分の死」を越えるほどの強い願いは、どんな反対があっても止める事はできない。その為に、彼に付いて行きたいクラスメイト達もその想いに飲み込まれ、現在魔法世界に連れ込まれ、窮地に立っている。そんな状況でも、ネギは悩み、責任を感じこそすれ、強さを求める事を止める事は出来ないでいる。これら一連の流れの中のどこかに、読者が不快を感じる部分があるのだろう。
問題は、なぜそのような不快感を描かなくてはならないのか、という事。
物語に深みを付ける為、ダイナミズムを付ける為などの理由もあるだろう。けれども、「ネギま!」は本来娯楽作品だ。その事を赤松健は明言している。そして赤松健はその「娯楽」を描く事にかけて、あらゆる手段を用いてそれを成そうとする作者のはずだ。不快感の理由である「ネギの性質」をどうにかすることは出来なかったのだろうか?
その事を疑問に思う時、「娯楽作品」としてある程度成功裏にまとまっている、赤松健の他の作品を検討してみる必要がある事に気が付いた。

「アイとま」の主人公ひとしと、「ラブひな」の景太郎、そして「ネギま!」のネギをとりあげてみる。
実は、彼らの性格はかなり共通する部分が多い。ひとしと景太郎は、元々女の子にモテナイ駄目駄目な男の子だが、彼らには共通する特徴がある。それは「一つの事についてはとことん追求し、誰にも負けない特技を持っている」という事。ひとしはPCがそうだったし、景太郎についてもチョコ作りとか、ボーリングなど、人には絶対負けないといえるほどの特技を持っている。これはネギが魔法具収集に精を出す、追求する性格と同じ性質の物だ。ネギについてはなにより「魔法」があり、それも「強くなる」という目標を「とことん追求」している。彼等3人の主人公は、この「とことん追及する」という同じ性質を持ち合わせているといってよいだろう。
そして、その「とことん追求する性質」について、気付く赤松健ファンも多いだろう。この性質は赤松健の性質でもあるのだ。

  • 物語が生まれる「源泉」

作者が物語を作る際、一体何を拠り所にするのか。それは作者自身の「欲望」だと思う。特にそれが「娯楽作品」の場合、その作品が作者にとって面白いと思えなければ、読者にも面白さは伝わらない。作者は、自身の「欲望」を満たす面白さを物語に与え、それに読者も共感した時、面白い物語が生まれるのだ。
そして「欲望」とは何か。それは多くの場合「コンプレックスの克服」として現れる。
赤松健の場合、もしかしたら、自身の「とことん追求する性質」をコンプレックスとして感じていたのかもしれない。それは度が過ぎると人に疎まれ、人から共感を得る事も難しい。
だからこそ、彼の作る物語の主人公は「とことん追及する性質」を持つのだ。例えば、単純なラブコメの場合、それが故に人から理解されず、女の子からもてず、けれども最後に、その性質故に女の子の心を掴み、充足する。これが「ネギま!」では、「可愛らしい男の子」であり先生でもあるネギは、当初から女の子にある程度受け入れられているが、結局、本当に女の子の心をつかむのは、彼の「とことん追及する性質」から派生しているものだったりする。
赤松健は、「娯楽」の為ならば私情を挟まず、どのような手段も厭わないと思われがちだが、実際にはここに「どうしても譲れない一線」があるように思う。これは、ある意味作者の自慰的な部分であるが、しかし、このような娯楽作品において、そのような部分がない作品など、何の魅力の無いものになるのではないだろうか。

読者は、赤松健の「欲望」が含まれた部分を基点に、「ネギま!」という作品に歪みを感じてしまっている。しかし、赤松健は「アイとま」「ラブひな」という過去の作品おいても自身の欲望を潜ませて、それでもなお「娯楽」を完成させていた。
では、なぜ現在「ネギま!」では、それが難しくなってきているのか?
一つには、最初にあげたように「長期連載」があるだろう。積み上げた設定の中で、制御が難しくなってきているのかもしれない。
けれども「ネギま!」には、その理由以上に、前2作品と根本的に違う構造があるように思う。
単純なラブコメである「アイとま」「ラブひな」では、主人公の目的は「女の子」だった。物語の構造として、物語の最後には主人公の「とことん追及する性質」が「男の価値」に変わり、「女の子の心」を得る。
しかし、「ネギま!」の場合は違う。主人公の目的は「父親」だが、彼は「世界の英雄」であり、それは「世界そのもの」に繋がる。物語の構造として、主人公の「とことん追及する性質」が「男の価値」に変わっていくのは同じだが、そこで得ようとしているのは「世界そのもの」なのだ。
いや、その過程には「先生」として生徒である「女の子の心」を掴む、という目的もあるだろう。実際、その目的にそった主人公の行動に、読者は共感を感じ、「面白い」とも思う。けれども、最終的な目的は「世界」であり「女の子」ではない。そこに読者は「ネギま!」の歪みを感じてしまっているに違いない。
おそらくは、作者である赤松健の興味の対象も、このように変化しているのだろう。つまり「女の子」から「世界」へと。そこに、従来のラブコメを求める読者の欲望である「女の子」と、赤松健の求める「世界」というギャップが生じているといえる。いや、今の「ネギま!」に求めるものは「世界」だ、という現在の赤松健の嗜好に近い「ネギま!」ファンもいるだろうし、この問題は、二種類のファンへの二極化、という歪みとも言えるだろう。

  • 抱えて進め

結局、こうなってくると、最後に重要になるのは「バランス」でしかないだろう。赤松健が我を強めて「世界」の物語を描くか、ラブコメに阿って「女の子」の物語を描くか。そのどちらに偏っても「ネギま!」という物語は面白くならないだろう。
ネギま!」は千雨のセリフにあるように
「ふっ切った悟ったは勘違い デカイ悩みなら 抱えて進め」
という精神で、今後も進んでいくしかないと思える。