「みなみけ」の喜び〜「失われた関係性」へのノスタルジー〜

このアニメ、観ているとなんだか「ふつふつと」喜びが込み上げてくる作品だ。
その「喜び」がなんなのか、結構考えていたのだが、11話でその理由の片鱗が見えた気がした。
当初は、単純に「家族」だから「良い」と感じていた。それは、現代のオタクには、絶対的に気を許せる「家族」という関係の甘みこそが求められているという、仮説に基づいてそう思った。
けれども、「みなみけ」で提示されているのは「家族」だけではない。クラスメイトも大きな要素として入ってくる。それでいて、全体的な雰囲気は崩れずに、当初から感じられる「喜び」が持続しているように思う。
では、この「喜び」は何なのか。
11話で、千秋が石蹴りをして下校するシーンがある。千秋は、その石に「山田」と名前を付け、愛おしむ様に接する。この作品にして少し叙情的に過ぎるシーンだが、これこそが、この「みなみけ」という作品の「喜び」を象徴しているシーンのように感じた。
この時の千秋のように、子供の頃、一寸したモノに愛着を持ち、それとの関係にこだわりを持ったりするような事は、誰にでも一度くらい経験があるだろう。それは、今は忘れてしまった、ノスタルジックな思い出だ。
これと同じ事が、キャラクター同士の関係にも当てはまるように思う。例えば、千秋は姉春香に対し「絶対的な」尊敬の念を抱いている。これは、時が経ち成長してしまえば薄れてしまう関係性だ。対して、千秋は姉夏奈に対して「徹底的に」軽蔑の念を向ける。これも幼い彼女だからこそ許される関係だろう。
南家以外のクラスメイトの関係でも、似たような部分が描かれる。夏奈と恋する番長のすれ違い、春香にアプローチできない保坂。また、男の子なのに女の子で通ってしまうマコちゃん、女の子なのに男の子扱いされる冬馬・・・。
これらは、とてもありきたりなエピソードだが、全て共通する点があるという事で、とても特徴的だ。その共通点とは「未成熟な関係性」という事。そして、その「未成熟な関係」は決して解決されること無く、提示されたままだ。もちろん、コメディ作品だからこそ、この「未成熟な関係」を「不条理な関係」として提示し面白みをつけているのだが、この「みなみけ」においては、この「未成熟な関係」を単に「コメディだから」だけで提示していないように思う。
単純なコメディでは、このような「不条理な関係」は消費される為にある。ありきたりなエピソードとして提示され、そして、その関係性は他の面白みの為に簡単に壊される。
しかし、「みなみけ」では「未成熟な関係」を強く意識した構成でコメディを展開し、その関係性は、まるで愛おしむかのように保存している。
「未成熟な関係性」とは、つまり、今は無き「失われてしまった関係性」に通じる。そして、その関係性は作品内でとても大切な物として扱われている。そこには、作者の強い郷愁を感じる。
性徴が少ないので、男の子と女の子が同じように扱われる。
親への愛情が恋しいので、つい親戚の人に懐いてしまう。
家族会議で自分が話題にされても、子供だからという理由で空気のように扱われる。
あだ名付け名人や、番長に祭り上げられてしまうのも、同じような物だ。
こんな関係性は、今では実際の小学生でも恥ずかしい物だろう。けれども、どこかで体験した懐かしい関係性だ。
みなみけ」を見て、ふつふつと湧き上がる想い、それはノスタルジーなのだろう。観る者は、そこに今は失ってしまった自分自身の「未成熟な関係性」を思い返し、「喜び」を感じる事が出来る。
千秋の蹴っていた「山田」は、夏奈の暴挙で手の届かない所に去ってしまった。
それは、二度と戻らない「未成熟な関係性」を象徴しているように思う。そして、それはとても愛おしいものだったと、気付かされるのだ。

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