「内面的なもの」の氾濫

書評サイトに対する作り手側の視線(ラノ漫―ライトノベルのマンガを本気で作る編集者の雑記)
http://d.hatena.ne.jp/m_tamasaka/20080105/1199483357
「ダメ書評」に対するマンガ編集者の視線(ラノ漫―ライトノベルのマンガを本気で作る編集者の雑記)
http://d.hatena.ne.jp/m_tamasaka/20080105/1199483357
最近巷で騒がれているこの問題について、私も少しだけ書いてみよう。
普通、こんな「本音」を書いちゃったりすると、反発だけ受けてしまいそうだけれども、これに同調する人も結構多いみたい。私も、必ずしも反発だけではなくて、納得してしまう部分がある。
結局、この「書評問題」って、書評そのものの問題では無い様に思う。
「書評」といっているけど、実際の所、これが世間的にも問題かもって雰囲気が出てきたのは、「2ch」だったり「ブログ」だったりが世間に広まってきた最近の事だと思う。もちろん、それ以前から「作家と評論家」という永遠の対立関係はあったけれども、それとは「質」が全然違う。「評論家」は、作家と同じく自分の文筆活動を、つまり生活をかけて「評論」を展開していたわけで、それは「作家」と対等の立場と言える。そんな人の書いた「書評」ならば、作家も甘んじて受けざるを得ないかもしれない。
けれども、現在巷に溢れている「書評」は、それとは全然違う物。
自分の正体を隠し、自分の生活もかけてなく、まったく無責任に自分の内面をさらけ出しているものが大半だ。(ここのブログも含めてw)。それは、逆に言えば本当に正直な「人の心そのもの」といえる。とても純粋で、正に本当の反応なのかもしれない。
けれども、それだけに作家は「傷付く」。
昔から「ファンレター」とかにも自分の内面をぶつける「痛いもの」も沢山あっただろう。けれども、それは極少数の意見として無視する事も出来た。けれども、最近はそうも言っていられない。そんな「痛いレビュー」がネットに氾濫し、実際の商売の場であるネット販売の書評欄にもしたり顔で書かれていたりする。けれども、その質は、評論を生活の糧とする「評論家」が書くほどの覚悟を持った「書評」などではない、単なる自分の鬱憤晴らしだけが目的の「内面的なもの」なのだ。
結局、この「書評問題」は、実質的には「対人関係問題」といえるだろう。
普通の対人関係において、本音だけで付き合っていれば、多くの場合まともな関係を築く事はではない。誰もが、どんな時にも「気遣い」とか「遠慮」をしなければならない場面があるはずだ。「内面的なもの」を人にぶつける「対人関係」においては、それなりの作法が必要だから。
ネットの対人関係の作法・・・つまりこの問題は、早い話「ネチケット」の事を言っていると考えれば良いのかもしれない。
けれども、作品の感想を書くのにも「ネチケット」を意識しなければならないとするのでは、書く方とすればそんなつまらない話も無いだろう。だれもが「内面的なもの」を曝け出したいと思って「2ch」なり「ブログ」なりを書いているのだし。
じゃあどうすれば一番良いのかという話になると、結局、「作家はネットの悪評なんか無責任な人たちのう○こ(心の廃棄物)だと思って無視すべき」だと思う。そして、もし見てしまったとしても、自分に都合の良い部分だけ受け止めていくべきだろう。これからの作家はそういう感性を持っていないとやっていけないように思う。
ネットには、人の「内面的なもの」「心のう○こ」が氾濫しているのだから。
・・・あー、いっぱい出したw。
P.S.
一つ書き忘れた。
「書評」を書く方としても、やはり無遠慮に書くだけではなくて、「対人関係」程度には気遣いが必要だと思う。そうしないと、本当に「有害廃棄物」でしかなくなる。基準としては「知人に対するのと同じ感覚で、その作家にその事が言えるかどうか」だろう。