綾瀬夕映について その四 裸の夕映の「学ぶ意志」

  • 「裸」の夕映

人は、ある環境に長く居ると、そこに適合した性格になる。その場で得た人間関係等に合わせて、心に一種の「衣」を纏う。人格的にも、ある程度修正が加わっているといえるだろう。
もし、まったく新しい環境に、過去の記憶を持たずに放り出されたらどうなるだろう。その時、そこで現れる人格こそ、より「裸」に近い人格といえるのでは無いだろうか。
203時間目において、魔法学術都市アリアドネーに飛ばされ記憶を失った夕映は、正にこのような状況にあった。これは、今現在の彼女の「裸」の心を知る事の出来る、とても貴重な機会といえるだろう。

  • 勉強嫌いの夕映

とは言え、ここでの彼女の性格は、あまり変わっていないように思える。
これは、夕映のという人物が基本的に素直な人格である事の証だ。また、記憶を無くした事による精神的な不安感なども希薄で、実に安定した精神状態を保っている。これらは、元々他人に阿る事の無い彼女の人格も関係するかもしれない。そこに特段目立つ性格の違いを見出すことは難しい。
しかし、それでも一寸した違いはある。一番分かるのが勉強に対する意識だろう。
夕映は学校の勉強に反抗的で、それが故に「バカレンジャー」と呼ばれるほど成績も悪い。ただ、それはあくまで学校の勉強をしないだけなので、頭が悪い訳ではないのはご承知のとおり。そして、アリアドネーでは自ら望んで学校の勉強をしている。これは一体どういう事なのか。
夕映は「学校の勉強」が嫌いなだけであって、元々学ぶ事が嫌いなわけではないようだ。それは、ネギの存在を抜きにしても、例えば麻帆良祭「哲学研勉強会」で発表しようとするほどの意欲を持っていることからも明らかだ。(90時間目) 他にも様々な場面で彼女独自の薀蓄を披露している。夕映が「勉強嫌い」とされているのは、学校という環境におかれているため、「勉強嫌い」という「衣」を纏っている、といえるだろう。
そして、なぜ夕映が「学校の勉強」を嫌うのかというと、それは押し付けられた学問が嫌いなのだろう。夕映にとって学ぶべき事は他にいくらでも有り、押し付けられた学問=学校の勉強に嫌悪を感じている。受験などが絡む「学校の勉強」は、自分の知りたい事を教えてくれない邪魔なもの、自分が興味を持たない学問は学問では無い、とすら感じているのかもしれない。
アリアドネーで学ぶユエは、この様な学校に対するわだかまりを忘れた「裸の夕映」だからこそ、素直に自分の心の内にある学ぶ意欲を提示できたのだと思える。

  • 二人のユエの共通点

ところで、この「裸の夕映」に、少し面白いエピソードがある。
ユエは出会って間もないコレットに対して思った事をそのまま言い、「ヤな奴って言われてたでしょ」と返される。これは、128時間目の回想の中で、出会って間もないパルに「あんたは・・・ヤな奴かな?」と言われた事と繋がっているエピソードだろう。このエピソードから夕映のもう一つの面が見えてくる。
128時間目の夕映は、祖父を亡くした後の心が荒んだ時期で、実際に性格の「ヤな奴」になっていたようだ。しかし、そんな夕映と「裸の夕映」はこのように同じ態度をとる。この事から、彼女は根本的に人と付き合う技術としてある部分が欠落している事が分かる。
人の能力、本質など、付き合って分る事があっても、それをそのまま指摘していては嫌われるのは当然だ。しかし、この二人のユエはどちらもそれを隠すことが出来ないようだ。
夕映にとって、物事の本質を把握し指摘する事は、人付き合いよりも重要なのだろう。そこで相手の機嫌を損ねる事よりも、自らが感じた事実に偽らない事の方が、彼女にとって大切な事だからこそ、この様な態度をとるのだと思える。この事は「裸の夕映」になっても明らかな、彼女の本質と思える。

  • 魔法の存在と学ぶ意志

「学ぶ事は好きだが学校の勉強は嫌い」
「人付き合いを差し置いても本質を指摘する」
この二つの性質には共通点がある。それは、「物事の本質を手に入れるために、他の犠牲は厭わない」という事だ。そこには、物事の本質を手に入れようとする、強い意志がある。
これは、夕映が今は亡き祖父、哲学者であったという綾瀬泰造を深く尊敬し、彼女自身が哲学に深く傾倒している哲学少女だからなのだろう。この「物事の本質を学ぼうとする意志」は彼女にとって最も重要な事であり、例えそれが記憶喪失になったからといって霧散してしまうものではない、「裸の夕映」の本質と思える。
そして今、彼女が興味を持っているのは「魔法の勉強」だ。
魔法先生ネギま!」世界において魔法は実在するものである。そして、その魔法とは一体何か。それは世界の森羅万象に係わる、自然界に存在する魔力を操り、全ての事象に影響を与える技術の事である。このようなものが実在するとすれば、魔法の取得こそ「物事の本質」を手に入れる事と同義と考えてもよいだろう。
夕映の中にある哲学への傾倒=「物事の本質を手に入れる意志」が「魔法の実在」を知った事により、それを手に入れたいという意志になるのは当然といえる。それはきっと「渇望」とも言える欲求だったに違いない。それは、夕映が自身のネギへの恋心に気付く前、59時間目の彼女の熱意ある行動をみても明らかだ。もしやそこには、ネギへの淡い恋心も含まれてだったかもしれないが、それ以上に純粋な学ぶ意志があったと考えてもよいだろう。
そして今、203時間目において、夕映は全ての記憶を失いながら、それでもなお魔法に対する学ぶ意志をみせている。
自分の来歴を知らず、なぜ自身が魔法を学びたいかも分からないだろう。エリート集団と思われるクラスの中で、魔法の力も他のクラスメイトに遠く及ばない。学ぶ事自体を非難する声すらあがっている。
それでもなお、夕映は立ち止まらない。何度失敗しようとも、転び傷だらけになろうとも、何度でも立ち上がり、挑戦し続ける。その先にある、物事の本質を手に入れるため。思い出せない「あの人」が手にしているものを、自分自身も手に入れるために。
夕映の学ぶ意志、それは何があっても変わらない、彼女の絶対の真実だ。

実は、この「綾瀬夕映について」シリーズ(w)は、当初綾瀬夕映というキャラクターを多角的に分析し、最終的に彼女の「本質」に迫ろうと目論んで始めたもの。けど、その後彼女は作品内でも大きくクローズアップされ、いわずがもなの様相を呈してきたので、なかなか書く機会に恵まれず、ここまで来てしまった。とは言え、書きたい気持ちは変わってないので、今後も機会を見付けてぽちぽちと書き続けていくつもり。