コードギアス 反逆のルルーシュR2 〜「悪意のギアス」がかけられるとき〜

やはり、この作品については色々と書きたくなってしまう。本当に魅力あるアニメだった。
この作品を一言で言うと、「視聴者の欲を思う存分引きずり回した作品」。それはもう、自分もいいように翻弄され続けた。それが本当に楽しい。悔しいくらいに。
自分的にこの作品の本質を分析すると、結構「厭らしい事」になってしまう。それはある意味自分を映す「鏡」みたいなものなのだろうとも思う。しかし、それでも書きたいものは書きたい。自分を曝け出す気分で書いてみよう。

  • 前作について

まず、前作無印に対する自分の感想を改めて提示しておく。
コードギアス 〜エンターティメントと倫理観〜(2007/3/11)
コードギアス 反逆のルルーシュ 〜気持ち悪さ、極まる〜(2007/3/26)
結論「コードギアス 反逆のルルーシュ」はとっても面白い(2007/7/31)
はっきり言えば、この作品ほど厭らしい作品はめったに無いと思っている。「底意地が悪い」と言っても良い。権力欲という誰もが渇望しながらも表立って求めるのは嫌がる欲望を、実に上手く提供している。受け手の多くが、自分が何を提供されて喜んでいるのかすら理解できないほど、巧妙な手口で。これは正に騙しのテクニックと言っても良いだろう。
しかし、それを前作の最終回で、全て奪い去る形で収拾させたので、その意地の悪さも一応解消されていた。
ただ問題は、再度物語が始動した時に、一体どちらの方向に向かうのかという事。つまり、前作の贖罪に向かうのか、更なる欺瞞に向かうのか。
結果は、最終回を終えた今であれば、勿論分かるだろう。前作において日本を舞台にした欺瞞の物語は、今回R2では更にスケールを広げ、世界に対してその欺瞞を向ける事になる。

  • R2のサイン

思うにこの方向性は、R2最初の時点で、明白なサインとして現れている。
物語の冒頭、まるで前作を繰り返すかのような構成になっている中で、気が付いてしまえばどうしても見過ごす事のできないルルーシュの行為がある。
前作でルルーシュは、真実を隠す為にゲットーの日本人を惨殺する軍の行動を止める為、テロリストであるカレン達を率い、軍と総督を倒した。
R2ではどうか。この時点ではテロでしかないルルーシュ達の行動を止めようとする総督を罠にかけ、一般兵諸共全滅させた。未だ戦争とは見做されない、自分の主張を宣言していない時点で、ただ自分が逃げる為にテロによる殺戮を行ったのだ。
この二つの行為は物語の構成上似た行為として軽く流されしまいがちだが、本質は全然違う。前回では、理念の無い行動を続ける軍を止めるという名目があったのに対し、今回は、ルルーシュ自身が理念を掲げる前に、ただ自身の保身の為に、より多くの人を殺したのだ。それも、自らの起したテロ行為を餌にして。
この繰り返し構成の中に潜ませた、より大きな主人公の欺瞞。これはおそらく作り手からのサインだろう。今回もひどい欺瞞の物語をやるよ、前回よりも大々的に騙してみせるよ、という事だ。本来ならば、もっと丁寧に隠すべき事をあえて見せている辺りがなんとも厭らしい。
そんなルルーシュが物語の中盤「自分はみんなを守りたい」という希望を提示する。これを聞くと「なんてひどい欺瞞」と思う。ルルーシュは、自分の行為でシャーリーの家族を奪い、不幸に落とし、最後には死に追いやった事を忘れたのか。テロ鎮圧に携わる一般兵の中に、彼の学園の卒業者や親族が絶対に居ないとでも言うのだろうか。人を殺すという事は、「守りたい」などという甘いお題目など一瞬で消し去る狂気の業でしかない。戦争という主張対立システムの枠外、テロ行為であるのならばなおの事。彼はこの時点で、「殺したくないよお」といいながら大量殺人を繰り返す殺人鬼のメンタリティとなんら変わらなくなっているといえる。

  • 大盤振る舞いの権力欲

権力欲は誰もが満たされたい。しかし、それを受け取って喜んでいる自分は嫌。コードギアスという作品は、そんな受け手を想定して作られて物語だと気が付けば、実は先を読む事が案外容易い物語と言えるだろう。権力欲を満たす描写と、それを嫌う矛盾した心を誤魔化す代償の描写。それを選り分けていけば、提示されているエピソードは実に明確な意図通りに描かれているのだから。
ルルーシュはどう転んでも権力を手に入れる。作戦に勝利したり、相手が転向したり。そして彼の勢力範囲が地図上で少しずつ広がっていくという事だけ見ても、受け手は非常な快楽を得る事が出来るのだ。
しかし、それだけでは受け手は騙されない。世の中は、権力を得ると同時に苦痛も伴うもの。だから、もっともらしい苦痛もルルーシュには用意されている。C.C.が記憶を失ったり、ナナリーが死んだり。しかし、それらがどうなったか、今なら分かるだろう。これらの出来事は「権力欲の代償」という苦痛を演出する為だけにあり、実際のルルーシュは何一つ失う事はない。
1(個人)を失った代わりに10(団体)を得て、結局1も取り戻すのだから、出入で0が10にも20にもなるというトリックだ。実は苦痛そのものすらほとんど存在しない。なんという欺瞞、なんというエンターティンメントだろう。本当に素晴らしいテクニックとしか言いようが無い。
そうして、受け手には権力欲という快楽が無限に積み上がって行く。正に快楽の大盤振る舞いという訳だ。

  • 欺瞞を教えない決着

こうやって膨れ上がった快楽の肥満は、最後には収拾のつかない所まで行き着いてしまう。それをどのように決着させるのかも、この物語の見所と言えるだろう。
これだけは予想がつかなかった。今までの欺瞞の悪意を曝け出し、誠実さを見せるのか。それともキレイに誤魔化し、欺瞞の物語として終わるのか。それは作り手の心一つだから。
コードギアスと同質の作品として「デス・ノート」があったが(というか、明らかにコードギアスはデス・ノートに着想を得ているのだけれども)、これは最後には全てを曝け出して終わった。ある意味誠実さを取ったといえるだろう。
しかし、コードギアスは逆の選択をしたといえるだろう。全ての憎悪を自分に向け、自らの死を持って決着させるルルーシュは、一見自らの行為を悔い、自らを裁く行為を取ったかのように思える。しかし、実際にはそうではない。彼は自分の行為を最後まで意味のある事と信じ、死に殉じる事で後の責任からすらも逃れたのだから。これを見た受け手も、当然ルルーシュを、世界を救い、世界の平和に殉じた救世主と信じることだろう。つまり、彼は死ぬ事によって、今までの欺瞞に満ちた行為を肯定したまま英雄になってしまうのだ。
ついでに言うと、この決着には更なる救いすら用意されている。C.C.は不死身の存在だ。あのシャルル皇帝も不死身の存在になった。では最後のシーン、C.C.が語りかけているのは生きているルルーシュではないのか。その証拠は明確では無いようだが、少なくともそう夢想して、ルルーシュの死、つまり感情移入先の「自分の死」という苦痛を受け入れるのが嫌な人にも逃げ道が出来るようになっている。無限の人生をC.C.という伴侶ととも過ごすという空想もなんとも魅力的だ。最後の最後まで快楽を与え続けるその姿勢には、賞賛を通り越して呆れてしまうほどだ。

  • 悪意のギアス

それに、ルルーシュのやった行為、その決着が本当に世界の為になったのかというと、実際の歴史を見れば到底信じる事は出来ないだろう。押さえつける権力がなくなったとき、人は最も凶暴になる。革命後のフランスやらロシアやらを見れば明らかだ。最も多くの人が死ぬ。綺麗に描かれているエピソードすら、実は最も大きな欺瞞なのだ。
ルルーシュという欺瞞に満ちた主人公を使い、それが欺瞞の物語である事すら最後まで気付かせず、受け手に莫大な権力欲という快楽を提供する。そして、その結末の姿すら欺瞞。
もしこれを、作り手が無自覚にやっていたとすれば賞賛に値するだろう。いや、それは到底信じられない。作り手は自覚してやっているのだ。どんな事をしてでも受け手を騙し通し、欺瞞に満ちた快楽を提供するという事を。これは、谷口監督のインタビューを見ても確信できる。
それは、娯楽を提供する者として正しい姿勢であるようにも思えるが、本当にそうかというとかなり疑問だ。受け手の快楽を刺激するだけの娯楽を作っても本当に良いのか。まともな人間ならば、そう考える事もあるだろう。しかし、そんな躊躇すら振り切るこの作品は、振り切る力として受け手への悪意すら含んでいると思える。受け手の判断力、自制心を侮るという悪意だ。
そして、その悪意は、悪意のまま物語の中に潜んでしまった。それは、この物語によって快楽を解放する事を受け入れてしまった受け手一人ひとりの心の中にも、潜む事になるだろう。
最終回を終えた今、全ての受け手は、コードギアスという作品によって「悪意のギアス」をかけられたように思う。