Lantis presents twilight listening party vol.5 duo music exchange

ランティスが主催するライブの、もう5回目らしい。知らなかった。内容は中原麻衣清水愛松来未祐の三人のソロパートの間にmarbleが入り、菊池達也がバンマスとして活躍するという形。各人とも見せ場が有り、中原麻衣清水愛ストパニ組と松来未祐、marbleのひだまり組のコラボとかもあり、ボリュームも充分で、とても豪華な、良いライブだった・・・。
・・・てなわけで、全体の感想は、まあこんなところ。個人的には、今回のライブ、実を言うと一人の事しか見ていない。それは清水愛中原麻衣松来未祐、marbleには申し訳ないけれども。
清水愛がライブをやる。その事に対して、こちらの想いがどれほど高まっているのか、言葉にするのは実に難しい。それを、あえて一言で言うならば、「雪辱」だ。言葉の選び方が悪いかも知れないけれども。
清水愛は不思議な存在だ。声優というタレントをやっているにも係わらず、自分に対して全く自信が無い。これは明らかな矛盾。タレントは「自分を演じてでも」客を楽しませる存在のはず。なのに、清水愛は演じた自分にすら自信が無く、見せられない。彼女が見せるのは、声優として演じた役であり、受身の自分。それは、一昔前のアイドルの「表面上の」資質かもしれない。しかし、本当に最後の最後まで自分に自信がなければ、アイドルもやっては居られない。しかし、それでやっていたのが清水愛だ。
今回のライブに臨み、どうしても思い返すのが彼女のソロライブ。あれは何年前だったか。ソロともなれば、「自信の無い自分」だけでライブは乗り切れない。タレントとなった動機=自己顕示欲を曝け出し、それを客が受け入れる事でライブは成立する。しかし、清水愛は最後までそれを見せる事がなかった。あのライブは、本当にライブとして成立していたのかというと、はなはだ疑問だ。しかし、清水愛のキャラクターには俄然興味が湧いた。その当時「清水愛伝説」と呼ばれるほどに幾多のイベントに求められ、ステージ上で役を演じ、受身で居続けている彼女が、そこまで自分に自信が無いとは。今でも、あのライブ上での、清水愛のすがるような眼差しを思い出す。
その後、清水愛のソロステージはほとんどない。歌もライブではあまり歌わない。けれども、なぜだか歌手活動だけは続けられる。
そして、その自身の音楽世界で、清水愛の内面が少しずつ見えてくる。この楽曲達の歌詞はあくまで奇才・畑亜貴によるものだが、それは、清水愛の本当の心象風景を映しているかのような、生々しさを感じさせる世界観を持っていた。また、それを自分の物として受け入れる事によって、清水愛にも何か変化が出て来ていたのかも知れない。
いや、こちらは変化が出て来ていて欲しいと望んでいたのだ。自分の為に作られた楽曲達によって、清水愛にも「清水愛の世界」が出来ていている。それが彼女に、今まで持ち得なかった「自信」を与えているはず。そして、いつかは「あの時見れなかった本当の清水愛」を見てみたいと、切に願っていたのだ。
そしてこのステージ。清水愛のソロパートとして、立て続けに二曲を歌う。二曲目の終わりに、何かを感じたのか涙ぐむが最後までどうどうと歌う。それは、あの時の清水愛から断然成長している姿。けど、本当ならば、そこでは泣いても良い。初めての生バンドライブ、そしてこの時期。特別なこのライブでならば、もっと自分を出してしまっても良いのに。それを見せる事を、やはり良しとしない彼女は、依然と同じ様に不器用なままだ。
しかし、それで良いのだろう。清水愛は弱い自分を取り繕う為に演技する事はあっても、自分をより良く見せる道具としての演技はしない。それは彼女の誠実さを示すものだ。大人の女性となって自分の弱さを克服し、演技の無い本当の自分だけでステージに立つ事が彼女の望みなのかもしれない。
そして、その後もMCを挟んで数曲歌い、「初めての」ソロライブを堂々とやり遂げた清水愛は、あの時のステージの貸りを返した事になったはずだ。これでやっと、彼女はスタート地点に立った事になるのだろうか。彼女の身辺にも大きな変化があり、これから積極的な活動をしていきたいとも言っていた。清水愛の今後の活動に期待したい。