忘れられているオタク論 〜萌えを中心に考える〜

最近、巷のオタク論がおかしい。別にオタクがどう論じられていても気にするつもりは無いけれども、一応自分もオタクのつもりだし、その自分の加わっている枠組みが、それこそ、どんどん違うものに変質して行っている状況がなんとも奇妙で、どこか居心地が悪くて、つい書きたくなってしまう。

  • オタク定義の混乱

結局の所、世間ではオタクはどのようなものだと認識されているのだろうか。
一つの事に打ち込む趣味人の極み?その為、人との交流が疎かになっている理解できない人?けど、一部の能力が飛びぬけて高い人?だから案外尊敬できる面もある人?
こんなところが、今までのオタクの定義だっただろうか?理解出来ない面もあるけど、趣味にクールで、かっこいい面もあるよ、って感じ。
けれども、それってオタクの良い面を強調しているだけであって、オタクは美少女アニメ・ゲームとかに「萌え〜」とかしている奴らもいるよ、という話もある。つーか、そっちが本質じゃないの、とかも言われる。
オタクというものにプライドを持っていたりする人からすると(本当にいるのか不明だが)、そんな自堕落に萌え萌え言ってる奴らはオタクじゃない、とか否定したりして。
かのオタキングは、オタク=趣味人の極みとして、オタクにプライドを持たせた偉大な人だったけれども、それが定着する前に世間のオタク像が萌えオタに流れてしまい、「オタク脂肪」とか言って逃げ出してしまった。しかし、残されたオタク達には既にオタクのアイデンティティみたいなものを持たされてしまったものだから、自分が何者かも判らないまま未だに燻ってる者がいたりする。
で、結局、オタク自身もそうなのだから、オタクって何?よく分からない? と誰もが思うようになる。そして、ならいっそ世間一般的に「オタク趣味」と呼ばれる物に手を出した人を全て「オタク」と言ってしまおうとかの話になっていたり。
けれどもそれって、そこらにいるほとんどの若者がそうなんじゃないのかという、凄い展開。もう、オタク論じゃ、全然無いw。
一体、どこでどう間違えれば、こんなことになるのだろうか。結局、オタクの本質をしっかり認識していないからこんな事になるのだろう。
じゃ、オタクの本質って何?お前言えるの?と責められそうだけれども、それは多分言える。それって、実はオタク自身があまり認識したくなくって、出来るだけ忘れようとしてきたこと。だから、オタキングの口車に乗せられて、別の理想を信じようとしたけど、もういい加減再認識すべきじゃないだろうか。

  • オタクの本質は萌えオタ

「うわ、やっちゃった」って感じ? 「それ間違ってるだろ」って思うのだろうか。
TBSとかがオタクを題材にして、実質萌えオタのキモイ部分をTVに曝したりすると、ネットでも大反発が起きる。それだけがオタクじゃない、と誰もが感じることだろう。
「オタクの本質は萌えオタ」こんなことを書くと、「お前、世間の噂話に流されすぎ」とか思われるに違いない。
けど、これだけは絶対的な事実だ。いや、言い方を替えるとすれば、オタクの本質が萌えにあるとしなければオタクという定義自身が不要、とも出来るだろう。
オタクという言葉より萌えの方が後から出来た用語なのだからその考え方はおかしい、と思う人もいるかもしれない。けれども、萌えという言葉はオタク活動の源を言葉に出来たのが遅れただけであって、それに類するものはオタク創世紀からあった、と考える事が出来る。
逆に、オタクという言葉が出来た時、実は、今までのオタク的な人=趣味に打ち込むマニアとは決定的に違う「ある要素」がそこに生まれていた。だからこそ、そんな人達をオタクと「呼ばざるを得なかった」のだ。
その「要素」、つまり萌えに繋がるモノを明確にすれば、オタクという定義が明確になってくるだろう。

  • オタクが見ているもの

めんどいから昭和何年に何があった、とかは書かない。ただ、まず最初にオタク(当時は「おたく」)という言葉が使われだしたのは昭和末期のアニメブームの時。最初はアニメマニアに対する蔑称として登場した。
で、なぜそんな蔑称が定着し、ここまで幅を利かせるほどに広がって行ったのか、という事が重要。その、世間に対して強いイメージを与える力を解明すれば、オタクという言葉の本質が見えてくる。
・・・一つ質問がある。あなたは、エロいキャラ画を見て欲情するとした場合、それを現実の裸像などと置き換えたりするだろうか。(キャラにエロなんか感じないよ、というのであればそれも答えの一つ)例えば、ハルヒの同人裸画を見て欲情する時、現実にハルヒがいればこんな感じかな、とか思うだろうか。エロ同人誌を買う人間であれば、別段常にそう思わなくても欲情することが出来るだろう。というか、普通にハルヒというキャラに欲情するはず。
オタクはキャラクターそのものに欲情している。実は、この部分が非常に重要。
昔から、画とは現実にあるものを置き換えるものだった。ここで、現実にあるものとは「人が想像する事」も含まれる。画家は本来、例えば過去のものであっても「現実にあるもの」を想像し、ファンタジーの世界でも「現実にあるもの」を想像し画にする。見る者はそんな画を通して、「現実にあるもの」を頭の中で再構築する。だからこそ、そこに現実の異性を認識することが出来、欲情することが出来るのだ。
しかし、オタクは違う。オタクはキャラクターそのものに恋をし、欲情する。オタクはキャラクターのデザインにこだわる。何故か。そのデザインこそがキャラクターの実像だから。だから、ハルヒがこなたになろうが、ゆののへちょ画になろうが、恋することが出来るし、欲情することが出来る。
これは、明らかにおかしなことでは無いだろうか。人が動物として生殖行為を根幹とする生き物だとすれば、対象が実在しない、違うとわかりながらそれに欲情するのは歪みすぎている。ある意味獣姦にも匹敵する精神が病んだ状況と言えるだろう。気取って言えば「ピュグマリオーン症候群」とでもすべきだろうか。
なぜ、オタクはこのように「壊れた」のか。それは、アニメという動く画の発展とキャラデザインの精進の賜物だろう。キャラクターそのものを魅力的に見せる。デザインそのものに愛着を感じさせる。その過程で、気が付かない内にある決定的な一線を越えてしまっていた。穿ったことを考えれば、そも手塚治虫が求めたデザインがその方向性を向いていたのではないかと推測したりもしている。
オタクは、キャラの画一つとっても、一般人とはまったく別の見方をしている。それは人の心の中で起きている事なので外からの把握は難しいが、一旦その異質さに気付いた時には、強烈な嫌悪感を感じさせることになるかもしれない。だからこそ、人は彼らに「オタク」と名付けざるを得なかったのだ。

  • オタクの拡散

ここまでで言っている事は、何処かの精神学者の人が既に言っている事かもしれない。そして、なぜもっとオタク論の中心として語られないのかと言えば、それがあくまで一部の萌えオタの生態を表しているだけだと認識されているからだろう。
しかし、本当にそうだろうか。人間にとって、生殖行為が根幹。それは全ての文化に表れてくる。「オタク文化」とまで言われる所以だ。現実の異性の他に欲情する存在がいれば、それは全く新しい風俗産業創設の可能性を意味する。そして、全てのデザインも、その架空のキャラクターを愛でることを目的として商品化される。それは、オタク産業全てを動かしている力そのものだ。そんな大きな力、それがオタクの共通認識として認知されたからこそ、その力に言葉が必要になり、それこそが「萌え」なのだろう。
もちろん、全てのオタクが、そんな異質な存在「萌え」に取り込まれている訳ではないだろう。萌えにどっぷりはまっている、いわゆる「萌えオタ」の他は、そんな異質さを自分の中に感じながら、どうにか取り繕うとしている「半萌えオタ」、若しくは萌えの感覚すらわからないオタク=実は昔ながらの「マニアオタク」などが居るに違いない。そして、半萌えオタなどはオタキングの言葉に踊らされて喜んだり、マニアオタクは萌えが自分達の居場所を汚しているとして嫌悪し続けているのかも。
しかし萌えの有る無しが、世にある趣味の、オタク趣味との境界線になっているのは確かだ。例えば、クラッシック音楽とかスポーツはオタク趣味とは馴染まない。なぜなら男女平等の上、健全な雰囲気があるからだ。逆に鉄道とかミリタリーなどはオタク趣味に取り込まれる。男女不平等にして若干の不健全さが歪んだ異性感情へとなびき易いから。そして、無理にでも萌えと繋がってくる。オタク趣味として太鼓判を押される所以だ。
オタクの世代論などもあったが、あれも結局、この萌えの概念が時代毎どう世間に浸透していたかによって、認識の違いが出ていたというのが正解かもしれない。古い年代が有能で、新しくなるにつき無能になったとかではなく、萌えという異質なものが世間にどう浸透したかによって、オタクの行動が変わらざるを得なかったといったところだろうか。

  • オタクは死なず

結局オタクとは、趣味に打ち込んだ挙句異性に顧みられず、その為架空のキャラに異性の代わりを求め、それがやはり異性から遠ざかる要素となって、結果更に趣味に打ち込む・・・という循環活動、言ってみれば「オタクスパイラル」によって、深化したものだと思う。もちろん、人は様々だからこの枠に収まらない人も沢山いるだろう。が、オタク文化の中心はそんなモテナイ者たちのスパイラルの力によって動いてきたと確信している。
だから、言葉遊びだけで「オタクは死んだ」とか言われても全然釈然としない。非モテは、つまりオタクの力になる者は何時の世にも一定数いるものだから。特に中高生の非モテの力などはとんでもなく強いものだから。そんな者たちの有り余った力を無視して、オタクが居なくなるなんて、ちゃんちゃら可笑しい。
オタクは萌えという武器を手に入れた。それを力に、決して留まることなく活動し続けるだろう。