「かんなぎ」について語ってみる 〜自分探しのない時代に〜

簡単に。
キャラクターが非常に魅力的で、どんどんと入り込んでしまう楽しさがあった。特にシリーズ前半。やっている事は、そのオープニングがなつかしのTVドラマからの引き写しだという事からも明らかなように、実はとっても古臭い。
純情少年の所に転がり込んだ不思議な少女。とっても明るく誰からも好かれる彼女。少年と少女は共に暮らす内、どちらからとも無く少しずつ惹かれあっていく。
典型的な同居型ラブコメだ。しかし、それがいい。白眉はメイド喫茶の回。ヒロインナギの魅力に効しきれず、勢い余って自分の想いを吐露してしまうピュアボーイ仁のシーンは、最高にむずがゆくて、良かった。
しかし、その後くらいから、どことなく色んな事象が噛み合わなくなってくる。そして、最終回になると、神様ナギが本当に神様なのかという問題が、重たい空気の中で展開する事になる。このあたり、どうしても作品的に失速してしまった感が否めない。
ただ、逆に考えると、「ナギが本当に神様か」という問題を最後のテーマに持って来ているという事は、作者は(少なくともヤマカンは)これが描きたかったと捉えるべき、と思い返してみた。どうも、キャラアニメの雰囲気からただ作品の失速感しか受け取ってなかったけれども、もっとこのテーマの事を考えてみるべきかもと思ったわけだ。
「ナギが本当に神様か」・・・これは「自分が何者か」というアイデンティティの発見物語となるだろう。仁はナギの事を子供の頃にも見ていた。そして、死に往く人の心にも、ナギの存在が平温を与えていた。これこそが神の証し。ナギはアイデンティティを取り戻し、仁も、ナギに承認を与えられる立場として、今後も支えていけるパートナーとして心の平温を得る・・・。
こんな所だろうか。結構良い感じにまとめられている。
けれども、こんな風なテーマが、何故かこちらの心に届き難い。改めて考えてみて、そんな事を言っている作品だよね、と「確認」するのが精一杯な感じ。
これってどういう事だろう。ヤマカンの演出が下手だった? いや、実際には、失速したと感じた辺りの回から念入りに伏線が構成されていて、雰囲気も徐々に高まっていたし、実際の演技も実に瑞々しく、意表をついたストーリーと併せて、演出面で悪いと思えるところは思い当たらない。
結局の所、このテーマは、受け手が共感を持つテーマではなかったという事なのかもしれない。つまり、「アイデンティティ発見物語」は当代の作品として馴染まない、という事。
アイデンティティ発見物語」って、昔の作品では良くあったような気がする。最終回の落ちの付け方として、重宝されていたと思う。けれども、今の人はそんなものには共感しない。それは何故か。現代人がアイデンティティについて自問するような人種ではなくなっているからかも。「自分は何者か」などと考えるのは、暇な人間がすること。今の時代、全ての暇を娯楽が埋めてくれる。「自分は何者か」などという恐ろしい事を考えるくらいならば、もっと別の事を考えるべき。ナギが感じた恐怖は、共感すべき恐怖として視聴者には届かなかったのでは無いだろうか。
ヤマカンは、20年前の芸能TVの要素を現在に持ち込んで瑞々しい演出を作り出している様に思う。しかし、それに併せてその当時に通用したテーマ性も持ち込もうとしたところ、時代と反りが合わなかったと言ったところだろうか。
ただ一つ言える事は、首尾一貫して自分の作りたい作品を作りとおしたのではないかという事。それは演出面からテーマに至るまで統一されたセンスによっているのかも。
そう思って改めて「かんなぎ」を見てみれば、今まで気付いていなかった所にも魅力を感じて見る事が出来るかもしれない。

かんなぎ 3 【完全生産限定版】 [DVD]

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