ネギまのハレとケ

先日、オタクの求める「永遠の楽園」について珍妙な文を書いたが、実はこの文の前振りだったりする。

  • 永遠の楽園のハレとケとケガレ三部作(w)

萌え四コマと「永遠の楽園」
オタクの原風景である「ドラえもん時空」と「劇場版」
否定としてのエンドレスエイト
因みに、以下の文は乱文の上、無意味に長いので注意w。最終的には「ネギ魔のお茶会2」の「生ネギま」の議題に対する回答になっていたりするのだが。
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最近のネギまを考える際、どうしても思考が二つに分裂してしまう。
それはラブコメ物としてのネギまと、バトル物としてのネギま。この二つを整理しておかないと、ネギまを上手く考える事が出来ないと思う。
ブコメとは日常を象徴し、つまり「ケ」だろう。そして、バトル物は非日常を象徴する「ハレ」だ。
ネギまはラブコメ物として始まった。子供先生のネギ君が、生徒の女子クラスメイト達に毎日弄られ、嬉し恥ずかしの日々。
赤松健のラブコメ作品、前作の「ラブひな」は、オタク漫画として秀逸な作品だったが、あえて言うならば一つだけ「欠点」があった。それは「永遠の楽園」ではない事。漫画の連載と現実の時間が完全にリンクし、連載が進めば、必ず終わりが来る事が明確になっていた。いや、実際にはここにこそ「ラブひな」の強さがあったのかもしれないが。「浪人生」というモラトリアムそのものが「永遠の楽園」であり、それを強く認識させる意味でも、リアルタイムとのリンクはやはり秀逸ではあった。そこに物語性が生まれ、オタク漫画に免疫の少ない読者にも、強くアピール出来たのかもしれない。
そして次作「ネギま」では、時間の取り扱いが大きく異なる。リアルタイムリンクは無くなり、ただ漫画の中では時間が流れる。そして、おそらくはそのタイムリミットも設定されていて、ネギが教師の修行を終える一年後までを描く作品だと思われる。
これも「永遠の楽園」の無い作品と言えるかもしれないが、しかし、実際に連載が開始されればそうでも無い事が判って来る。つまりこれは「コータローまかりとおる」なのだ。例え作中時間が流れていても、その時間の密度が高ければ、かなり長く連載が続く。(コータローは90巻を超えているが、作中時間は2年程度w)それがラブコメとして機能していれば、永遠のラブコメ時空、つまり「永遠の楽園」が生まれる。
しかし、そうは言っても、その様な形で「永遠の楽園」を形成するのは難しい。今例に出した「コータロー」にしても、バトル物としてだからこそ密度の濃い物語を形成する事が出来る。密度の濃いラブコメを長期に渡って描く事など、恐ろしいほどの労力が必要とされるだろう。
だから「ネギま」は、実際には単なるラブコメとして設計された作品ではなかった。それは、少年ネギの成長物語。ネギが成長するにつれ戦いにも巻き込まれていく、バトル物としての側面も持った作品としても、予め設定されていた作品だったのだ。
個人的な事を言えば、この設定に気付かされた時、私はかなり「痺れた」。オタクは「永遠の楽園」を求める。それは間違いない。しかし、その求められ消費された「永遠の楽園」は、回収される事が無いため、作品が終わった時には途轍もない「空しさ」を残す事になる。この「空しさ」をどうにかする作品を求めていたから。
これは「ケ」に対する「ハレ」の必要性なのだろう。「永遠の楽園」は、豊穣なる時の蓄積だ。しかし、そこで生まれた実りが収穫されないまま終ってしまう事は、その豊かさ故に、逆に強いストレスを感じてしまう。「これだけ豊かな時間を過ごしたのだから、何時か何かになって欲しい」と思うのが、人の心というものなのだろう。
ネギま」の「京都修学旅行編」において、ネギのシリアスな設定の一端が垣間見えた時、この「ケ」の物語には「ハレ」も用意されていると直感し、狂喜乱舞したものだった。

「永遠の楽園」でありながら、それが回収される物語。つまり、完成された物語として、真の意味でオタクが求める(というか、少なくとも自分が求めている)作品になりえると思ったのだ。
だから、「ネギま」においてバトルは必然であり、必ずしもそれを否定するものではない。ネギまはラブコメとバトルを両輪の様にして進む物語だと言ってよいだろう。
ただし・・・ただし、だ。
最近、ネギまはバトル物としての傾向をかなり強めている。それは本当に「今」で良いのだろうか。
確かに、密度の濃いラブコメを長期間作るのは難しいとは思う。しかし、「ネギま」はそれを可能にするようにも設定されていたはずだ。そして、その設定はまだ全然残っているとしか思えない。ネギが物語の展開上魔法世界に連れてきたクラスメイトはまだ一部だし、その一部のクラスメイト達ですら、全ての設定が消費されているとは到底思えない。もちろん、パクティオーしている者も一部だ。残り者のパクティオーをじっくりと描いていくだけでも、相当な時間がかかるだろう。ネギまは「ケ」としてのラブコメ物としても、まだまだ相当な余力が残っている作品と思える。
そして、そのラブコメ物の継続、つまり「永遠の楽園」の形成は、より大きな実りを生み、より大きな「ハレ」の場を求めるはずだ。
また、今、ネギ一人が急速に戦闘力を上げ、それによって物語の「ハレ」の舞台設定とも言えるネギや明日菜の出生の秘密が解き明かされようとしている。それが「永遠の楽園」を収拾するハレの場として足りているかと言えば、まるで足りていないと言えるだろう。
もっとクラスメイト達も活躍する場が欲しい。例えば麻帆良祭の武道大会で、ネギと同じくらいに活躍したくー老師や龍宮隊長が居たとすれば、今の魔法世界の戦いでは、実力を付け始めたパクティオー者達がネギと同じくらいの活躍が出来る場を設けて欲しい。ネギがあそこまで強くなったのだから、クラスメイトの一人ひとりがそれに見合うくらいの実力を持ち戦いに望む過程があってもいい位だ。ネギまは、ネギとクラスメイトの物語なのだから、ネギ一人のハレの場ではなく、全クラスメイトが等しくハレの場を与えられて欲しい。
つまり、ネギまがもともと持つポテンシャルとしては、ラブコメ=「永遠の楽園」=「ケ」にしても、バトル物=「ハレ」にしても、まだ全然余力が残している、勿体無い状態としか思えないのだ。
だから、最近の、ネギまが物語の収拾に向けて進行しているのでは?という雰囲気が、どうにも我慢がならない。
おそらく、そう考えてしまう要因は想像できる。それは物語その物に原因があるのではなく、外的な要因だ。ネギまが展開してきたメディアミックス戦略は、相当な利益を生んだはずだ。しかし、それが今もその展開当初と同じポテンシャルを持っているかというと、そう考えない人の方が多いだろう。物を売るという点から考えてみて、手垢が付いた商品と見られてもおかしくは無い。
しかし、それは非常に短絡的な思考でしかない。何が売れるのかといえば、それは商品の価値によって決まってくるのだし、その商品的な価値は、物語の場合、その魅力一つで決まってくる。
物語とは、魅力があり続ければ無限に売れる商品なのだから、「終わり目はどこか」とか言う議論は無意味なのだ。設定に無理が出なければ、そして魅力があり続ければ、物語はいくらでも続けてよい。その両方をネギまはまだクリアしていると思える。
そして、その様にこれからもネギまを継続していくとすれば、ネギが強くなる事は必ずしも良い事ではない。ネギをサポートするクラスメイト達が戦闘に参加できるよう、ネギが今よりも弱くなるくらいのほうが、ネギまの「ハレ」は充実するだろう。
そして、ネギまのラブコメ、その一番の機能は「パクティオー」だ。パクティオーはいくらでも大切に扱ってよいし、焦らしてもよい。それがネギまという作品を「永遠の楽園」にするのだから。
順番を逆にしてもう一度整理しよう。
クラスメイトの設定のポテンシャルはまだまだ余裕がある。だから、じっくり描くべきだしパクティオーも即席ですべきではない。バトル展開で必然性が出てきたから、などという理由は、元々のネギまの形態である「ケ」=ラブコメがあってこその「ハレ」=バトルなのだから、主客逆転した論理としか言いようが無い。
そして、そんなクラスメイトのハレの場の設定の為には、ネギの極端な成長は障害として働くと思われる。だから、ネギが今後更に強くなるとか、その為の修行の物語を描くとかは、あまり好ましくない。いっそ、ネギの戦闘力に何らかの制限をかけるくらいが丁度よいと考える。
そして、それら二つの整備が済めば、物語はいくらでも長く続ける事ができる。また、それが魅力ある作品であり続ければ、作品の終わり目を気にする事など無意味だろう。少なくとも、前の二つの整備と魅力的な作品であり続ける事は、私の中では矛盾しない。矛盾するかもしれないと考えるのは、例えば女性読者などに代表される一般層を意識する故かもしれないが、そうやって作品が「所謂ジャンプ漫画」に変質し、それ故に作品の持つエネルギー半場で物語が終了に向かうのでは、それこそ意味の無い配慮という事になるだろう。
全ての事柄に「ハレ」と「ケ」がある様に、「ケ」の時に若干アンケートの数値が下がったからといって、それを恐れるのは短絡的だ。少なくとも、そうやってネギまが「所謂ジャンプ漫画」に堕して終了するのでは、あまりに寂しい事だ。
ネギまという「永遠の楽園」がこれからも末永く続く事、それを強く希望したい。