堀江由衣をめぐる冒険2 〜武道館で舞踏会〜 日本武道館

さて、今日は色々書いてもよいのかな?w
現在、堀江由衣については、書きたい事が山ほどある。それほど注目している。おそらく、彼女は今、世間的にも再評価すべき時期に来ていると思う。まあ、ここではライブの事だけを書こう。とは言えこの日のライブの中味は全然書かないが。
彼女が「自分のライブをしない」という事は、前に言った。堀江由衣がやるのは「物語」。「ライブ」とは、自分の歌に対する生き様を表現する事だとすれば、彼女は、それを表現する事から明らかに逃げている。
自身を物語の中に落とし込み、その中でしか表現しない。それは、もしかしたら声優のライブとしてある意味正しい事なのかもしれない。声優の本筋はやはり演技にあり、歌に力を入れているというのは、声優としてある意味邪道なのかもしれないから。
しかし、才能を持っているのならば、それを伸ばしていくのは悪いことでは無いだろう。林原めぐみにしろ、水樹奈々にしろ、二つ以上の才能をもっている者が、その才能を求めているファンに対してそれを提供していった。いや、林原めぐみはやらなかったのか。もしかしたらこの大先輩から何らかの助言を受けているのかも、とか邪推してしまいそうだ。
実際、堀江由衣が「ライブ」をしない事は、彼女にとって良い事とは思えない。
堀江由衣が「物語」をするのは、純粋に観客を楽しませたいとの思いからだろう。「声優である自分には、この程度が望ましい」と思っているのだろうか。
実際、ファンはこれでも充分楽しむ事が出来る。堀江由衣の歌や声やその容姿を思う存分堪能し、その上で一寸した物語も楽しむ事が出来るのだから、これに勝るエンターティメントは無い。しかし、それでは駄目なのだ。ファンにとって、これではやはり物足りなさを感じてしまう。
前から思っていることなのだが、「ライブ」とは一種の「契約の場」では無いかと思う。特に声優のライブにおいて。
声優が、本来自身の本業でない歌手活動を提供するにあたり、歌手活動に対する誠実さをみせる必要がある。ファンは、勿論純粋に歌を楽しむという事もあるだろうが、それに加えて、自身の愛するキャラを演じる声優の「人格」も見たいと思っている。上手い歌だけを聴きたければ歌手の所に行けばよい。誠実に歌手活動と声優業を両立させていると感じるからこそ、その声優のファンになり、その歌手活動を応援したいと思うようになる。
そして、「ライブ」こそ、その誠実さをみせる絶好の機会だ。自身の努力の成果を見せ、その努力をした時の自身の心の内を曝け出す事によって、ファンに自身の誠実さを証明する。
この誠実さの証明こそが曲者なのだw。誠実さを受け取ってしまったファンはどう思うか。誠実さには誠実さで返すしかないではないかw。
ファンは、その声優に対し、次回以降も誠実にライブに通おうと思うだろうし、もっと誠実に応援しようとグッズも買い漁りたくなるw。声優が誠実さという「気持ち」をファンに提供する事によって、ファンの方もより強く応援したいという「気持ち」を返さざるを得なくなる。返す行為そのものが快楽になっていく。そんな「気持ち」の交換をする「契約の場」になるのがライブだと思う。
しかし、堀江由衣は、そのような契約行為を最初の形式から外そうとする。ただ、エンターティメントの一部である自分に徹する。それは、本当に勿体無いことだと思う。
ファンは、堀江由衣が、どれほど凄い声優活動をしているか知っている。幾多の作品において、最も輝かしいヒロインキャラを演じてきた、ヒロイン声優の頂点にいる人だ。その輝かしい声は、アイドル声優界において、有無を言わせず全てを平伏させる力を持っているだろう。
そして、その歌声も、その輝きだからこそ出せるオンリーワンの力を持っている。それをあれほどの大舞台で、あれほどのボリュームで、出し惜しみなく見せてくれるのだから、誠実でない筈は無いではないか。
ファンは、堀江由衣自身の言葉を聞き、歌を聴き、ライブ会場で堀江由衣という存在そのものとの関係性を深めたいと思っている筈だ。
しかし、堀江由衣のライブにおいて、ステージの上にいる堀江由衣は「物語の中の」堀江由衣なのだ。それでは、「心の契約」の履行は出来ない。これほど歯がゆい事は無い。我々は「ほっちゃんを」応援したいのに。
それでも、そんな「契約」の無いまま堀江由衣はここ武道館2daysまで来た。これは恐るべきことだ。
そんな「堀江由衣」という存在を見るにつけ、なんとも居た堪れないような気分になる。当代ヒロイン声優の頂点にいる者、いわば我らの時代の英雄の、生き様のようなものを感じてしまうから。
ほっちゃん可愛い。」では言い表せない。彼女は「格好良い」。
彼女の今後の展開を、その行く末を、気にせざるを得ない。