その見方は、間違っている

ネギま277時間目の魔法世界住民大量消失について。
ネギまで大きな展開があると、やはり他の人の感想が気になる。ネットを色々うろついたり。で、気になった事が一つ。
この大殺戮、「一度消えたけど、また復活するんでしょ」と考える人が結構多い。
まあ、ねえ? そう考えるのも分かる。
赤松健は、読者に優しい作品を書く事を以前から表明しているし、実際、今までの作品もそうだった。
それに、復活の伏線も入りまくりだ。創造主、人形、そしてリライトの魔法。消された彼らが作られた存在だったのならば、もう一度作り直す事は出来るでしょ?という訳だ。
赤松健がこんな大量殺人をするはず無い。大量に消えたからこそ、復活するのは当然だ。
こんな論調がかなりのサイトの感想を占めている。先が分かってしまうからつまらない、みたいな感想すらある。
・・・けど、それは全然駄目だ。その見方は「間違っている」。
「甘いよ。赤松健は殺したままにするよ。」とか言いたいのでは無い。その可能性も無くは無いが、そんな事ではない。
復活論を言い立てる人は、おそらく「漫画の読み方」を知り尽くしているのだろう。「ここでこういう構成になったのだから、次の展開はこうだろう」という先読みが出来る人。作品を外から見ることが出来るので、冷静な分析をしている。
そして、その分析はおそらく「正しい」。今までのネギまの展開、そしてこの大量消失から考えて、復活する展開にならない方がおかしいくらいだ。
・・・しかし、そんな分析をしたとして、それは物語を楽しんでいる事になるのだろうか。
本来、物語の見方に「正しい」「間違い」などというものは無い。しかし、それでも物語を楽しまない見方は、私にとって「間違っている」と思える。
おそらく、今回の大量消失は、今までネギまのぬるま湯的な世界に浸かってきた読者には、あまりにも「異質」な出来事だった。この異質な事柄をそのまま受け止めると、それは「痛み」になる。そしてそんな痛みは楽しめないから、この展開は嘘だと思う。つまり、「逃げる」のだ。これは赤松健が書いた空想なのだから、御都合主義の展開になるはずだという分析をして、物語世界から逃げている。
しかし、物語を真に楽しむには、その物語をそのまま受け止める事が必要。まず受け止めてみて、それから面白いかどうかを判断するのが筋というものだ。
「物語を楽しむ」には、色々ある。辛い展開だから面白くないというものではない。辛い展開があってこそ、面白い場合もある。いや、普通はそれが当たり前だろう。容量を超えた痛みを提示されたからと言って、それを見ないふりをするのは、物語の楽しみを放棄するのと同義だ。
案外、赤松健はこのような反応がある事を、推測していただろう。「これ信じない人もいるだろうな」と。これほどのありえない大量消失にしたのは、辛すぎる人が現実と受け止めなくてもよいよう、読者が逃げないための安全弁なのかもしれないという気すらする。
しかし、物語で描かれているものは、実際には何か? 人がその存在を消されたのだ。今まで、自分と語り合い、互いの命すら守りあった親友を、自分の手の中で無くしてしまったのだ。そこでは「後で助かるよ」なんて救いは一切無い。有るのは、消えていった者の、やはり消えていく温もりだけ。それは明らかに人の死だ。
その死と、その死を見取った者の心は、その物語の中で真実なのだ。それは、物語を受け取る者にとっても真実でなくてはならない。何故なら、それを否定する事は、物語とその登場人物を否定する事になるのだから。
私は、例え辛くても、登場人物たちと共にその死を受け止めたいと思う。
・・・夕映、頑張れ。