宮崎駿「幻想三部作」を語る

ポニョのテレビ放映を記念して、宮崎作品についてなんか書きたいw。やっぱり、凄い作品ばかりだからね。
ここはやはり、今のところの最後の三作品、「千と千尋の神隠し」「ハウルの動く城」「崖の上のポニョ」について書いてみよう。いわゆる、宮崎駿の「幻想三部作」について。

宮崎駿の作品はどれも評価が高いけれども、この三作品については案外評価の分かれるところだと思う。若干、物語構成が曖昧で、一見、勢いだけで作っているような印象がある。幻想的、印象的、観念的、未完成的と色々言われる。それでも、誰もがリピートして見てしまうから、良い作品なのだろう的な評価。しかし、もっと分かりやすい「ラピュタ」の方が良かった、とか、「トトロ」より劣化している的な感想を持っている者も多いように思う。
それって、おそらくこの幻想三部作が「認識しづらい」作品だからなのだろう。なぜこの映画たちが面白いのか、その理由がいま一つ頭の中で整理されていないから。
断言したい。この「幻想三部作」は傑作だ。
もし、認識しづらいと感じているのならば、次からは、そのもやもやを少しでも取り除く為に、ひじょーに簡単に、この三部作について解説してみたい。

千と千尋」を見て、多くの人が「キモチイイ」と思うようだ。見るだけで快感を感じる。なぜそう感じるのか。
その理由は簡単。それは「快楽神経そのものを刺激する映画」だから。
・・・こんな表現では、駄目だな。ただ言葉を変えているだけみたいだ。もっと具体的に解説しよう。
あの千尋が迷い込んだ世界は、「人の脳神経を具象化した世界」と取ることができる。
始まりの街は視神経。現実世界が映っているが、どれもすぐに偽物に変わる。油屋は当然「脳」そのもの。夜になると情報=神がやってきてはその汚れを清めていく。その間、眠りの海が脳を浸す。釜爺は自律神経を司る小脳。同じ行動を繰り返し、必要に応じて必要な薬を送り出す。湯婆婆は脳内の自我そのもの。自分でも抑えられない衝動に悩まされている。
そして、カオナシはその脳神経が抱える大きな負の感情そのものであり、対して、ハクはその脳が本来持つ清らかな精神そのもの。千尋は脳神経の一部「千」になって、自我の暴走をすり抜け、大きな神経の汚れを取り除き、負の感情に対して悠然と立ち向かい、正常な神経を取り戻す。正に、神経を正しい状態に戻す過程を具象化しており、それを映像で見ることによって同様の快楽を得ることが出来るようになっている。
千が最後に辿り着く電車の先は、脊髄の先、いわゆる「丹田」。そこにはもう一つの「脳」があって良心的に接してくれる。
ただ、その良心の住む場所のイメージがディズニー的なのがなんとも面白い。宮崎駿も、心の奥底ではディズニーに捉われていると言う告白なのかもw。

あえて言うなら、三部作の中でも最も「軽薄」な作品。原作つきという事もあり、意味性が薄い。
頑なな少女ソフィーを動く事もままならない老身に変え、それでもなお輝く精神を描く。精神を輝かせる魔法使いとしてハウルがおり、二人の行動が同調するにつれ、世界は、過去、未来、現在の区別がつかないような、夢の世界に変貌していく。精神世界を自由に描くという目的は達しているが、その結果は結構陳腐だったという落ち。それでも、めくるめく幻想世界の描写は素晴らしい。

宮崎駿は、幻想性を求め(ていたのかは定かでは無いけれどもw)、「千」から「ハウル」の際、「神経」から「精神」へと向かったが、それはあまり効果的ではなかった。ならば、どちらの方向へ向かえばよいのか考えた末に辿り着いたのが「生命」だったのではないだろうか。(と妄想)
この作品を、「死のイメージに満ちている」と評する人が居たけれども、それは表面しか見ていない捉え方だと思う。「死のイメージ」はある。しかし、それ以上に満ちているのは「生命のイメージ」。それは圧倒的な力で迫ってきている。
作品全体が「生命」に関するメッセージに溢れており、その中には「死」も存在するが、それは当然。「命」と「死」は同列だから。一つの生命が誕生するのに、それに億倍するほどの「死」が存在するのは自然の摂理。その生命の本質を認識しないでこの作品の表面を見るから、「死」のイメージにだけに捉われるのだ。
沢山の精子卵子がたった一つの命を作り上げる為に、時には争い、もしくは助け合う。嵐の中のソースケとポニョは、胎内の中で次代に達する為に懸命にあがく「生命」そのものだ。
嵐を呼び起こす月。隣接する老人ホームと保育園。生命を司る存在としてのポニョと赤ん坊の邂逅。二人でトンネルを潜り抜けて達する約束の地。そのどれもが生と死をイメージさせる。具体的に整理できないほどのイメージだが、実際の命のありようそのものがそうなのだから、これで正しいと思える。ただ、膨大な生命のエネルギーを感じさせる。
それにしても、フジモトの精製し溜めていた液体だけは、なんとなく具体的なイメージが思い付くなあ。流石、元人間。ちょっとイヤw。
神経も、それが生み出す精神も、すべては命を基にしている。ある意味、根源の世界を描いている作品と言えるだろう。

元々、宮崎駿は生粋のエンターティナーだった。なによりも分かりやすく楽しめるものを大切にする作り手。しかし、そこに、意味性、つまりテーマを含めて描いた方がより価値があるし、その方が人の心に残るという意味でエンテーティメントとして両立するという事を理解していた人でもある。
娯楽とテーマ、そのどちらも観客にとっては「理解するもの」。より深く、理解しやすいものを追及し、極限まで高めようとしていたように思う。しかし、その両者は本質的には別の方向を向くもの。その分裂は「もののけ姫」で明確な形になってしまう。
そこで、「理解の範疇を超えるもの」を目指したのが「幻想三部作」だったのだろう。
「理解」などよりも上位の「感じる」作品。心や身体で感じるだけの作品。それは作品を「芸術」へ高める作業に似て、非常に意味深い工程と思える。芸術などは後世にならないと正確な評価は出来ないと思うが、やはり凄い作品と感じさせる。
これだけのものを作ったからには、凡人の発想では次の段階は到底想像できない。自身もこれで打ち止めと思っているようだし。
しかし、そんなところから新たなものを作り出してしまうのが「天才」なんだよなあ。「千」が生まれた時もそんな風だった。
また次の段階へ進む宮崎駿を見てみたい。その実現は、結構「ありそう」と思っていたりする。