質問は出さない

このところ、ネギまの単行本では、赤松健自身の企画による「なぜなにネギま!」という質問受付コーナーが続いている。これは、昔のALNBBSとか「ネギのお茶会」の単行本掲載版ともいえるもので、赤松健自身が質問に答えてくれる、とても貴重なコーナー。
なのだが、私はこれに参加した事はない。メールは出していない。
なぜかというと、どこかとても「危険」な感じがしたから。
BBSやお茶会などの質問への回答は、明確な記録は残らない。それに比べて、単行本への回答は、それ自体が作品と一緒になるのだから、絶対に残る。これはかなり重みのある事だし、答えてもらった人はとても嬉しいだろう。
しかし、その重みがとても怖い。
赤松健が質問に答え、それが単行本に載るという事は、それは赤松健自身の作品そのものと言っても良いのではないか。
であるならば、赤松健は、その質問に答えたことによって、質問に関する部分を漫画という作品にする必要性が無くなるのではないだろうか。
言い方を変えると、赤松健は質問を受け付ける事によって、漫画を書くという責任から逃れている。
また、こういう言い方が出来るかもしれない。質問者は、質問を受け付けてもらえた事によって、ネギまという漫画の可能性の一部を、知らず知らずに排除してしまっているのかも。
今回、30巻の「なぜなにネギま!」の中で、一つ気になった部分がある。
それは、魔法先生の神多羅木がグラサンを取って魔法を使う事は「今後一切無い」という記述。なぜここまで言い切れるのか。漫画は生物だ。今後、ネギまが「10巻20巻続いたら」、ネギと魔法先生がもっと親密に共闘する事があるかもしれないではないか。その際、グラサンをとる事があるかもしれない。それとも本当にグラサンを取ると魔法が使えなくなるという設定なのか? そこに設定の積み上げというよりも可能性の縮減を感じてしまう。つまり「最終回までの」展開の中に神多羅木の活躍が無いという事を想定しての回答のように思えてしまう。
質問はしたい。しかし、それは物語の先が気になるという、読者として当たり前の欲求である。そこに、作者本人から公認で抜け道を教えてもらえるという状況は、どこか危険に満ちた誘惑のように思う。
私は怖い。
だから質問は出さない。

DVD付き初回限定版 魔法先生ネギま! (32) (講談社キャラクターズA)

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