ネギま!についてぼちぼちと

久しぶりに、ネギまのことなどを書いてみよう。
最近感想書いていないからといって、別に読んでないとか、面白くないとかじゃ全く無い。週刊で追いかけているし、やはり断然面白い。
設定に深みがあって、けどスマートで、可愛い女の子が沢山出てきて、ちょっとエッチで、ストーリーもスリリングで、それでいて幸せになれる安心感もある。今更こんな事言うまでも無いことだろうけれども、作品の大きさと安定感といったら、比較する対象をなかなか探すのが難しいくらいだろう。
ただ、最近微妙な煮詰まり感を感じさせているのも事実。設定がデカくなりすぎて、ネギまの根本である萌えオタコンテンツという枠に収まりきれなくなっている。逆に言うと、大きな設定を魅力的に見せる為に、通常のエンターティメントテクニックを取り入れても、一般人から「萌え豚専用でしょ」といわれる「偏見」(一面事実)からは逃れられない。
萌えオタコンテンツ=萌えコンをどこまで巨大化させられるのかという赤松健の壮大な実験は、まあこの辺りが限度なのかな、という雰囲気が見え隠れしている。漫画という媒体で萌えコンを最大限広げてみたものの、それが既に限界を超えていて、ある意味どこか着陸点を探しているような印象が、どうしてもしてしまう。
ネギまに対する私的な要望としては、もう少し力を抜いて、設定とかでは手が込んでいても、もっとゆるゆるとした萌え展開が継続するような感じにして欲しかったのだが。(赤松健曰く、それが一番難しい上に効率も良くないらしいのだがw)
さっき、「通常のエンターティメントテクニック」いったけれども、これはどういう事かと言うと、最近は「設定を使い切る」傾向の作品が多い。つまり、提示した設定をとにかくすぐ使って、状況が停滞している印象を与えない作品が多い。設定を「置く」と、それが動くのを待つにも忍耐が必要になる。そういった忍耐を与えないために設定をその場その場で使い切り、それでもなお次の展開につなげるのが優れた娯楽というわけだ。
ネギまは当初全然別の方法論を使っていたはずだ。萌えというゆるい展開だからこそ、読者には重要かどうかもわからない設定を少しずつ置いていける。そうする事で、その重要性に読者が気付いた時、わくわくするような世界観が出来上がっている。
設定は使い切ってこそエンターティメントとして健全ではあるけれども、萌えに関しては必ずしもそうではない。例えば萌え作品のロボ子キャラが設定を使い切る事など滅多に無いw。設定は雰囲気作りでもあり、萌えでは雰囲気こそが最も大切だったりする。
ネギまは、そんな萌えコンと健全エンターティメントの間を境目を縫うようにしてきた様に思う。けれども、最近では作品が大きくなり、より広い読者層にも認められようと、健全エンターティメントの領域に深く足を踏み入れている。そうなると、気がついたら今まで積み上げてきた設定を使い切る事が最大の命題になり、その為の算段に追われてしまう。まあ、それが最高に面白いともいえるのだけれども。
ただ、以前の雰囲気が好きだった者としては、最近のネギまを読むのは、溜まっていくのを楽しみにしていたダムの水が放流されてとしまい、それを唖然として眺めているという感覚に近い。以前は、きっとゆるゆるした雰囲気の中で少しずつ世界観が構築されていく感じが楽しくて、その発見の積み重ねを書きとめるために感想を書いていたのかもしれない。けれども、今では作品の勢いに押されて、なかなか感想も書けない。今もし書くとしたら、一話ごとではなく、大きな設定とかについてだろうか。
今の展開も面白くてよい。けれども、このダムの放流が終ったら、また以前のスピードに戻るのだろうか。私としてはそれを強く望んでいるのだけれども。
ネギまがより長く続く為にも、もう少し平穏な二学期を迎えて欲しいものだ。