たまゆら〜hitotose〜OP解説「現実と写真の対比効果、なので」

たまゆら」の演出が素晴らしい、と強く訴えている今日この頃だが、実際にどのように「素晴らしい」のか、語っていない事に気付いた。もし、実際に書こうと思ったら、一話に付き最低原稿用紙5.6枚くらいはいけるレベルの思い入れがある。まあ、演出の良さを文章にするのは結構骨が折れるので、怠けているのだが。けれども、少しくらいは書いてみたい。OPについて軽く。
まず、非常に平面的な風景を引くところから始まる。そこに楓が水平的に入ってきて、やはり平面的。
ところが、次の写真館のガラス扉を開いて入るシーンで、クラスメイト達の姿が開いたガラス扉に一瞬映り、すぐに本人達も登場する。つまり、ここでは「立体」を表現している。この対比が素晴らしい。
要は、アニメ絵的に平面だと思わせておいて立体を表し、そこに空間が存在している事を強く認識させている。空間とは、実体、現実だ。この作品には、それを強く意識させなくてはいけない要素がある。つまり「写真」。この「たまゆら」という作品の最大のテーマは写真で表現されている。ただの平面的なアニメではなく、空間を強く意識させないと、それを平面に落とし込む「写真」の意味が薄れてしまう。最初のワンシーンで、それを回避する演出がなされているというわけだ。
そして、その後は現実と写真の対比が続く。つまり写真のフレームを意識させる枠とその外側。ここでは、二つの要素が同時に進行する。
ひとつは、時間の経過。最初の観光写真は楓の父の写真だろうか。しかし、その後、楓がカメラを構えるシーンの後は、彼女の写真が扱われている。時と共に写真に写っていくものが経過していくさまが表される。
そしてもう一つが、写されている写真の意味。楓の写真は、最初は被写体から意識されている。その時、写真のフレームの外と中との関連性は失われている。竹原の自然の中で、がむしゃらにカメラを構えている様子が判る。しかし、一つのトンネルを抜けた後、写真の質が一変する。被写体はカメラを意識していない。もし意識しても、全くの自然体を崩さない。その時、フレームの外側も、内側と同じ風景だ。それは、被写体がカメラに自然に収まっていることの証しであり、振り返って、それは楓の父が残した写真のシーンと同じだ。つまり、楓が憧れていた父の写真に近づけた事を示しているのだろう。実際には、父の写真は、同じ場所を写しながら全く違う写真となっていて、更なる高みに居るのだが。
この作品では、実際には現実と写真の違いを描きたいのでは無い。写真はその写す者の心によって、現実をそのままに収める事が出来るし、写真の中にこそ真実が現れる事もある。この現実と写真の対比とその経過の中で、それを明確に表現している。
そして、最後のシーン、楓が写しているはずの写真には彼女自身が収まっている。それは、彼女の心が、写真を通じてこの竹原の地に住む意味を見出した事を表しているのかも知れない。
また、その様な心の象徴が、この作品では正に写真に中に写り表されるという「たまゆら」であり、そのたまゆらが彼女の周りを取り巻いている事を示して、終了となる。

たまゆら~hitotose~第1巻 [Blu-ray]

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