ダークナイト ライジングにみる「変化が有り得ない絶望」 〜パトレイバー2との比較から〜

そういえば、この映画の感想を書くの、忘れていた。色々ともやもやした映画だから、感想書くのも少し躊躇してしまっていた。
基本的には、とても面白い「キャラクター映画」だと思う。まあ、突っ込みどころが無い事も無いが、ヒーロー物の少し強引な展開って、それだけで一つの魅力だし、そのあたりを「矛盾だ」とか「辻褄が合わない」とか言うのはやはり野暮だろう。あたま空っぽにして観てよいと思う。「エンターティメントに満ちた作品」だ。
その上、この映画では曲がりなりにも、現実世界に対する危機感と、それを打開する意志が描かれている。傑作だった前作「ダークナイト」に、なんとか追いすがろうと努力しているところが素晴らしい。やはり、映画はこのくらい頑張って作ってくれると見ごたえがあるというものだ。
この映画は、バットマンの原作と「二都物語」を合わせて構成されているらしい。だけど、それがまるっきり「機動警察パトレイバー 2 the Movie」になってしまっているのが面白い。まるで、前作に匹敵する作品を作らんがため、なにか良いプロットが無いか探した結果、P2をパクったんじゃないか? とか、日本のアニオタである自分なんかは感じてしまうw。そのくらい、「ダークナイト ライジング」と「パトレイバー2」の共通点は多い。
ただ、この二つの作品は、全く逆の方向に向かっているのが面白い。
パトレイバー2」では、東京が柘植という元自衛官によって封鎖され、外部との接触が出来なくなってしまう。その箱庭の中で、柘植は自衛隊による架空のクーデターを演出して警察との関係を悪化させ、架空の戦争状態を作っていく。
ダークナイト ライジング」では、ニューヨークをイメージしたゴッサム・シティが悪役ベインによって封鎖され、その中で、ベインは市民を誘導して、元の権力者達を弾圧する恐怖政治を市民の手によって実行させる。構造上は似ている。
しかし、「パトレイバー2」では、柘植は日本にとって良かれと思って、東京を箱庭としたシュミレーションにより警告している。
そして、「ダークナイト ライジング」では、ベインはあくまで社会を憎み、ただただその箱庭に破壊と恐怖をもたらす事を目的としている。
また、「パトレイバー2」の柘植の計画は、警告であるだけに、観客に対する問題提起として、「不安」を与える。(戦争描写が面白いという側面はもちろんあるが)
そして、「ダークナイト ライジング」のベインの計画は、観客が普段から不満をぶつける対象である権力者への制裁でもあり、「快楽」を与える・・・。
ダークナイト ライジング」は「エンターティメントに満ちた作品」だと思う。それは、最後のバットマンの胸のすく戦いと勝利においても感じる事ができるが、それ以前の、悪役ベインの恐怖政治において、そこで描かれている権力者が地位を失う様も、一つのエンターティメントとして感じる事が出来る様になっている。
正義の快楽、悪の快楽、その両方が描かれていると言えるだろう。しかし、この映画の構造がどうにも「もやもや」してしまう。
パトレイバー2」では、結局柘植の「箱庭を使った警告」は国民に届かず、どこと無く閉塞感を感じさせる終わり方だった。けれども、それは、その警告に「現実にいる観客」が気づけば、何かが変わるかもしれないという、希望を感じさせるものだったのかもと、今となっては思う。
しかし、「ダークナイト ライジング」では、わざわざ作った箱庭において「現実から離れた快楽」を描いている。そして、結局それを「あるべきものではない箱庭」として、ヒーローによって否定させている。つまり、「現実にいる観客」は、悪役により守られた箱庭の中で快楽を得ていて、しかし、やはり現実的にはそれはあってはいけないものとして否定している。
現実は、人々が悪役による架空の世界で快楽を求めるくらい、どうしようもなく追い詰められている。しかし、それは否定されるべき。
映画では、否定する根拠を「弱きを助け守る心」というアメリカにおいて使い古された「言い訳」で締めくくっている。それは正しくも思えるが、ここでは明らかに希薄だろう。だって、その一時前に「暴力による快楽を感じていた観客」という自分がいるのだから。
ベインによってもたらされた快楽、その裏返しである「憤り」は、世界中どこにでも蔓延している。そして、ベインの様にしなければそれを解消する事が出来ない。そこに「変化が有り得ない」。
そういった「絶望」を、この映画は証明しているように思える。

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