宮沢賢治「黄いろのトマト」解説

 掌編ながら複雑な構成の物語である。
 キュステという架空の著者が設定されていて、そのキュステの子供時代のエピソードとされている。さらにそのエピソードは、博物館の剥製の蜂雀(これも架空の鳥)が語った物語がメイン。「物語」の外側に、物語を語る剥製の鳥、少年時代の語り部、架空の語り部、実際の著者宮沢賢治と、幾重もの入れ子細工のような構成になっている。

 宮沢賢治と架空の語り部との間には「架空」という隔たり、架空の語り部と少年時代の語り部の間には「時間」の隔たり、少年時代の語り部と剥製の鳥の間には「非現実的」な隔たりがあり、その向こう側に存在する「物語」は、とても現実から遠い、抽象的で神話的な物語と感じることが出来るだろう。

 なので、その「物語」の内容に深い「抽象性」を見出したくなるのは、これに触れた読者の人情というものだ。この「物語」で語られている「黄いろのトマト」がどのような意味を持つのか、まずはその抽象概念を吟味したくなる。

  • 「黄いろのトマト」の抽象的な意味

 とは言え、それは至ってシンプルだ。「物語」で語られる兄妹ペムペルとネリは、自然の中で質素に暮らしている。そして、黄いろのトマトを「黄金」として大切なものと思う。兄妹は、ある時やってきたサーカスに興味を持ち、持ち合わせの無い木戸銭の代わりとして「黄金」であるトマトを渡す事を思いつく。しかし、それは拒絶され、酷く貶められる。
 自然の中で暮らす兄妹は未開・未熟の象徴、サーカスは文明・成熟の象徴だろう。その兄妹が「黄金」だと思った黄いろのトマトは、成熟した文明に拒絶される未熟な未開社会の象徴と考える事が出来る。「黄いろ」は「未熟な」トマトともかかっているかもしれない。それを「黄金」だと考えるのは、筆者の古き良き時代に対する郷愁も含まれるのだろう。
 筆者は、この兄妹の物語に、過去から続く未開社会が、これから発展していくであろう文明社会に拒絶される様を表現している。新旧社会の衝突、新しい文化に対する期待と不安といった、元々筆者が良く取り上げるテーマが、幼い兄妹の社会における挫折という形をとって、小さな作品の中に凝縮されている。
 しかし、この解釈はこの複雑な物語の、ほんの一部分を説明しただけに過ぎない。
 なぜ、この物語はこのように複雑な入れ子細工のような構成になっているのか。それが物語の抽象性を高める演出の為だけというのは、掌編の構成として無理がありすぎる。演出の為というよりも、構成に意味を持たせる為とした方が自然だろう。この複雑な構成については、もっと検証する必要がある。

  • 「不可解な箇所」を解析する 〜未完成である理由〜

 この物語には、三つほど不可思議な部分が存在する。
 一つは、剥製の蜂雀の言動。蜂雀はことあるごとに口をつぐみ、聞き手である幼いキュステを悲しませる。その行動に何の意味があるのか。
 あとの二つは、この作品が未完成とされている事と関係する。つまり、一つは兄妹ペムペルとネリの成長の過程において、ページが欠落しているということ。その理由は何か。
 もう一つは、そのペムペルとネリの物語の最終盤、ペムペルがネリを置いてトマトを取りに戻るシーン。ここで「何も起きない」ということ。この時、蜂雀はネリが一時的に置き去りにされる状況を心配しており、それは明らかに悪い事態が起こる伏線となっている。なのに何も起きなかったのは何故?
 この三つの不可解な箇所の意味を解き明かす事により、この複雑な物語の意味も分ってくる。この三つの箇所について、後ろから順にみていきたい。まず、ネリが無事だったことについて。
 この兄妹ペムペルとネリの物語が、実は「グスコープドリの伝記」におけるブドリとネリの兄妹の物語と同質のものである事は、宮沢賢治を少しでも知る者ならばすぐに分るだろう。ならば、プドリにおける妹ネリはどうなったのか。人攫いに攫われて行方不明になってしまうはずだ。ならば、本来であればペムペルの妹ネリについても、同様に攫われる運命にあったのでは無いのか。それがこの物語において攫われなかったというのは、プドリの物語と明確な違いを持たせる為だったといえる。
 そして、二つ目の箇所。兄妹の成長の過程の部分が丸々一ページ欠落していること。この箇所に何が書かれていたのかは、その前後の兄妹の置かれている状況の変化を見れば明らかだ。冒頭、兄妹は両親の元で何不自由なく暮らしていたのに、欠落ページ後には、二人だけで生活しなくてはならない状況にある。その欠落したページに、二人が両親を無くした描写が書かれていたのは確かだろう。また、それはやはり「グスコープドリの伝記」と同じ展開である。
 では何故、その部分が欠落していたのか。それは「ネリが無事だった事」と併せて考えると、見当が付くだろう。両親を無くすという事は、二人にとって明らかな悲劇。それを、ネリが攫われる悲劇と同様、「悲劇を無くす必要があった」為、その描写を検討していて、このように未完の部分を残してしまったのではないかと推測出来る。
 「グスコープドリの伝記」では、冒頭に「両親の死」と「ネリが攫われる」という二つの悲劇が描かれる事により、ブドリがその次の行動に出る事になる。悲劇によって「物語が始まる」と言っても良い。
 しかし、このペムペルとネリの物語では、本当の意味の悲劇は起きない。ただ幼い行動による世間における一寸した挫折だけが描かれ、兄妹達は元の生活に戻っていく。これは「始まらない物語」と言って良いだろう。
 つまり、筆者は本来あるべき物語を、あえて「始まらない物語」に改変するがために、このような不可解な部分を残してしまったのだと思える。

  • 「不可解な箇所」を解析する 〜奇妙な蜂雀の行動〜

 そして、最初にあげた不可解な箇所「もったいぶった蜂雀の語り口」についても、この二つの箇所の理由と照らし合わせると、その不可解さの意図が透けて見えてくる。
つまり、もったいぶった語り口で、人の興味を引くような事を語ると、その内容が「始まらない物語」のような、本当の意味が無い物語でも興味をそそられてしまう、ということを表現したかったという事になる。
 キュステ少年は、その幼さ故に、蜂雀が「兄妹がかわいそうなことにあう」という予告を聞いただけで、その内容も分らずに泣いてしまう。蜂雀のキュステ少年に対するやり口は、それを傍で見ていた博物館の番人が非難していることからも、著者がそれが酷い行いである事を意識して書いている事は明らかだろう。
このような視点から見ると、黄いろのトマトの意味合いは、まったく別の側面も持っている事になる。つまり、黄いろのトマトは、このペムペルとネリの「始まらない物語」と同様、「無意味さ」の象徴でもある。

 そして、改めてこの掌編全体の、複雑な構成を思い返してみる。
 「黄いろのトマト」が、それを包含している「兄妹の物語」の象徴的な意味であるのと同様に、「兄妹の物語」が、それを包含している「蜂雀の語り口」の象徴であり、さらには、この物語「黄いろのトマト」全体の意味となっている。
このように高次的な構造を持つ物語は、往々にして、それを書いている筆者自身も包含した物語であること、つまり自身を表現する目的の物語であることが多い。そう考えてみると、この物語は正にその典型例ではないかと思える。
つまり蜂雀は、正に筆者宮沢賢治童話作家としての側面を表現しているのではないだろうか。
 この作品を書いているとき、宮沢賢治は自身の童話作家としての立場に、一種の不信感を持っていたのかもしれない。童話作家とは、幼い子供を騙して泣かせるような存在。物語の中に意図的に悲劇を設定し、読者の興味をさそって感情移入させ、泣かせたりもする。それは黄いろのトマトを「黄金」とするような無意味な行為ではないか。そんな、自身の仕事に対する不信感があったのかもしれない。

  • 「自画像」としての物語

 宮沢賢治は、実家の家業が質屋であり、それを一種他人の不幸を利用する仕事として嫌悪していた。その潔白さゆえに家を継がず、童話作家を目指したのだという。ならば、自身の仕事に対しても、その潔白な視点で疑問を持ったとして、なんら不思議ではないだろう。
 この「黄いろのトマト」という物語は、その構成からして、元々は宮沢賢治自身の立場を再確認するために綴られた、一種の「自画像」的な物語だったのでは無いだろうか。
しかし、自画像として自身のテーマを物語の一部に凝縮して込めた為に、上手く構成しきれずに未完となり、結果、そのテーマ部分のみ強く印象に残る不思議な物語となっている様に思う。
 ともあれ、未完の掌編にして、宮沢賢治という作家の様々な面を内包している、重要な物語といえるだろう。
 物語の最後、剥製の蜂雀は「もうはなせない」といって嘴を閉じてしまう。キュステ少年の記憶としての蜂雀は、この後もう話をしなかったのだろうか。
 架空の世界の、少年の記憶の中の、静かな博物館の中の、動かぬ剥製としての蜂雀。その童話を語る儚い存在に、童話作家である宮沢賢治は、どのような想いを重ねていたのだろう。