「グスコーブドリの伝記」感想

少し油断していたら、近くの映画館ではもう縮小上映だという。相当に評判は良くないのだろう。しかし、気になっている作品なので、慌てて見に行ってみる。
みて、評判の悪い理由は良く分る。原作どおりではない、色々詰め込みすぎ、けど淡々とした展開、元々内容的に暗い、とか。
しかし、この作品はおそらく宮沢賢治が好きで、好きすぎて色々やってしまいたくなった作品なんだろうなあ、とか思う。もしかして、ますむらひろしの漫画が脚色の底本?そちらは読んだことないのだけれども。
グスコーブドリの伝記」は宮沢賢治の「ありうべかりし自伝」とされているが、きっと彼の心象風景の深い部分に属している物語なのだろう。そして、それをより深く描こうと望むならば、当然、その前身である「ペンネンネンネンネン・ネネムの伝記」を意識せざるを得ない。「ペンネンネンネンネン・ネネムの伝記」がどういう話かと言うと、「ネネムという主人公がなめくじの化物の世界で裁判官として立身出世する」話。ネネムはブドリだから、つまりこの映画で裁判官としても描かれる人攫いとブドリは、表裏一体の存在と言う解釈になっているわけだ。
宮沢賢治のことが大好きで、けど、第二次大戦を経た現代日本人の感覚として、自己犠牲は受け入れ難くて、彼の精神面の奥底を見つける形で折り合いを付けたら、このような映像になりました・・・という感じかもしれない。
ただ・・・、それはあまりよろしくない解釈では無いかと思える。やはり、宮沢賢治の願いは「献身」なのだろう。それが「グスコープドリの伝記」のテーマであり、そのテーマを構築する骨の部分のいくつかが抜け落ちている。それは、宮沢賢治に対する背信だ。
この作品において、宮沢賢治が描く「献身」は、実に理にかなっている。この半理想郷である「イーハトーブ」を動かす力の源は「火山」。火山を科学の力で制する事で、全住民の半恒久的な幸せが実現できる設定の「異世界」だ。ブドリの行いが現実的に可能かという事は問題ではなく、可能な世界として設定してある事が重要なのだ。宮沢賢治は科学の信奉者だったかも知れないが、そこに限界がある事も充分実体験している人のはず。彼は科学の盲目的礼賛を描きたいわけではなかっただろう。
彼は、自分の設定した世界観の中で、主人公がいかに理にかなった「最大限の献身」を実行できるかという事に、意義を見出していたに違いない。
「火山」という世界を制する万能の力を操れる立場になり、しかしだからこそ、その世界の最大の危機に際し、自分の身と引き換えに、唯一世界を救える立場に立つ主人公。これは、自身の身を、世界存続のために使うモチーフとして、一種神話的な物語と言える。おそらく、このようなモチーフは、宮沢賢治が自分の妹を亡くして以降、最も心安らぐものだっただろう。それを彼から取り上げるのは、あまりに残酷だ。
現代人の価値観が自我により過ぎていると言われる昨今、そして、宮沢賢治が改めて取り上げられている現状において、もう少し、自分の価値観の有り様も含めて見直した上で、作品作りに取り組んで欲しかったと思える。
愛情が感じられるだけに、より残念な作品だ。

献身」行為の恐ろしさ
この事に付いて、小コラム的に書いておこう。
「献身」は決して悪では無いだろう。例えば、愛する異性のため自身を犠牲にする、とか、全人類の為、その身を投げ出す、とかについて、何の異論も無い。「自分の命が全人類のために役に立つ」という機会が巡ってくるのならば、最も意義の有る「生き方」として喜びを感じる、という宮沢賢治の考え方は、実に正しいと思える。
ただ、これは一種「考え方」を超えている部分があるのが、怖い。人は社会的動物だ。上記のような機会が巡ってくると、まるでシロアリの兵隊アリのように、遺伝子レベルで喜びを感じてしまうだろう。
そこをナショナリズムに利用されてしまうという恐ろしさがある。社会的動物として、「国家の礎になる」とかも、遺伝子レベルの喜びとして、人には組み込まれているようなので、そこを野心的な国家によって利用される悲劇が歴史上沢山起きているのは、必然的ともいえる。
現代人は、この恐ろしさを知っているので、極端に「献身」を恐れる。「個人」を大切にしたがる。
しかし、本来、人は社会的動物として機能していたからこそ、ここまでの発展をしてきている。「個人」にしか価値を感じない人は「人として壊れて」いるし、そんな人が主流になったら、その社会も壊れていると言って良いだろう。
「献身」を大切にしつつ、その恐ろしさも充分理解しておく。
そういった態度が、現代人に求められる理性的な対応では無いだろうか。
・・・
けど、オタクって「人として壊れて」ないと、なかなか活動が続けられないんだよね。w

イーハトーブ幻想 ? KENJIの春 [DVD]

イーハトーブ幻想 ? KENJIの春 [DVD]