クロジ第11回公演 かみさまのおかお 初日 俳優座劇場

クロジの演劇については、興味のある声優さんが体当たりの演技をしてくれるので、毎回、非常に満足させてもらっている。以前には、清水愛とか、門脇舞以とか。有る意味、声優界ではアイドル的な要素のある人たちも、演劇の場では演技のプロとして真摯に劇に打ち込んでいる。
・・・実際の所をいうと、観客の興味を引くためか毎回エロティックな要素を多めに取り込むあざとさが、少し鼻にかかるのだけれども、そういうところもひっくるめて、役者としての力を肌で感じることが出来る場と言える。
今回の演劇の主役は能登麻美子。以前にクロジの演劇に出た時にも、その存在感で舞台の中心的な役どころだったけれども、今回は徹頭徹尾彼女が主役。能登の演じる人物がそこに存在する事により、全てが狂っていくという、悲しくもおぞましい話。
幼少のころ、母の言いつけで「生き神さま」にさせられた少女が、ただ「かみさま」として新興宗教の教祖の家に存在し続けている。そこに、10年以上前に家から出ていた、かみさまの妹とその恋人が戻ってくるところから、話が始まる。
「かみさま」であるのと同時に、ただ存在だけさせられていただけの30過ぎの女。何もない、空っぽであるがゆえに、彼女にからむ全ての人間を狂わせていく恐るべき存在を、能登麻美子が熱演、いや「狂演」する。
彼女はかみさまだ。それゆえか、それに係わろうとする全ての人間も、もともと酷く矮小で、いとも簡単に彼女の底なしの虚無に落ちていく。その様は実に滑稽であり、酷く、悲しい。
実際のところ、本来人が神と係わろうとするときには、恐ろしいほどの胆力が必要だろう。それは、人の「存在そのもの」を請け負うという事と同義なのだから。それを思慮に欠けた小人物たちが浅薄に扱っているあたり、実に浅ましい様相を呈することになる。
そういった意味で、この演劇そのもの、そこに描かれているのは、実に浅ましい話といえる。それをあえて演じる演者の凄みをもってすれば、それは「狂演」と言う他無いだろう。
凄まじい演技を見せてもらった。
演技の凄まじさもさることながら、能登麻美子の存在自体が、日常を感じさせないようなところがあり、「私、かみさまじゃない」とかいいつつ神々しいところ、正に適役と言える。
物語は、その浅ましい様相のまま、終わりを迎える。そういった意味で、この話にはまったく救いは無い。物語の作者自身も、底なしの虚無の淵をほんの少し覗いただけでしかないだろう。これは、大いに反省すべきところだと思う。演劇において、演者をその虚無に引き込むのは自分達なのだから。
改めて、演劇というものの恐ろしさを感じさせる演目ではあった。

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