ガッチャマンクラウズを語ってみる

なにやらネットではガチャクラ論壇が出来るほど盛り上がっているとかなんとか。実に面白いと思う。この作品がということよりも、この作品に反応している世間が。
この作品の構造は、それほど新しいものではない。ヒーロー不要論が唱えられたのはもう3・40年も昔からのこと。ヒーローの登場のすぐ後に、それを疑問視する意見も出たものだ。ならその進化型は何かというと、それはすぐに全体主義に結びつき否定形となった。つまりデストピア的な未来像が提示された。これはSFの流れとしては定番とも言える。このガッチャマンクラウズは、その流れを実に丁寧に、現代のツールを取り込んで順を追って見せている。ただそれだけの事だ。
しかし、それなのにこの流れの一部に世間が飛びつくあたり、実に興味深い。
人と人とが結びつくツールによって、人の善意が呼び起される。そこにリアリティーを感じて理想の未来像を信じた人が多かったと言う事だろう。これは凄いな、と思った。
このことに端的に感想を述べさせてもらうとすると、ここまで現代の人は「追いつめられているんだ」と、一種の恐怖を感じた。
世の中は善意では動かない。これは現代社会、資本主義社会の基本だ。人は最終的に自己保存を優先するので、人の善意を当てにして社会構造を作るなど、愚の骨頂とも言える。そんなものを当てにしないで、それでもなんとか折り合いをつけて共同生活をするのが社会構造と言うものだ。
人の善意とは、ある意味リソースでしかない。余分。多くの物語に犠牲的精神が描かれる事もあるけれども、それはあまり「自然」ではない。保身こそが自然だし、現実的な人間の行動だろう。
しかし、このガッチャマンクラウズを見た人達は、その人の善意に心を突き動かされたらしい。その可能性を考察してみたい欲求に駆られたらしい。その心の動きが少し怖い。
きっとその人たちには、この社会は「人の善意が無ければ駄目だ」という無意識の恐怖があるのではないかと思う。今の社会そのものに対する絶望に近いものが。その想いは、まるで革命家の思想に似ている。皆が心を一つにして現勢力を打倒すべきだという精神。まるで、ヒトラー政権が生まれる前夜みたいなものが、皆の心の中に宿っているのではないだろうか。
そして、物語は当然のようにそんな人の善意の脆さを露呈するが、それでも危険な兆候は続く。悪の化身ベルクカッツェに対抗できるのは、主人子の少女はじめちゃんのみ。
この胸の大きなキュートな女の子の言動に、皆が踊らされている。彼女ならばどうにかしてくれるのではないかと期待している。こんな、なんの経験も実績も無い、少なくとも過去を全く知らない女の子の言動に全人類の滅亡がかかるという物語を見て、何の疑問も持っていない。
なんて人は流されやすいんだと思う。これではまるで聖少女ジャンヌダルクに先導されたフランス人のようだ。それが正しく導く聖母のような存在であることを疑いもしない。彼女がこの現代日本の鬱屈した状況から抜け出す答えを指示してくれることを期待しているかのよう。そんなものは有りはしないのに。
ガッチャマンクラウズが面白いか面白くないかといえば、確かに面白い。しかし、それはキャラクターが状況に応じて活き活きと個性的な動きをしているところの面白さであって、その中にある、主人公はじめの感性に任せた行動が肯定され続ける展開などは「気持ち悪い」レベルに感じてしまう。
まさか、女神はじめちゃんが地球を救って終わる結末だったらと思うと、またそれを絶賛する層が居たりしたらと思うと、怖くて怖くて仕方が無い。そういった意味でも、今後の展開が実に興味深い作品だ。

INNOCENT NOTE

INNOCENT NOTE