「普通の女子校生が【ろこどる】やってみた。」の出来が良すぎて堪らない 〜アイドルアニメにおいてやって欲しい第四の要素について〜

アニメ「ろこどる」の出来が素晴らしい。アイドルアニメとして相当な出来だ。
アイドルアニメが魅力的になるには幾つかの要素が必要。アイドルキャラが魅力的とか、シンデレラストーリーがよく練れているとか、ライブステージの映像が凄いとか。
キャラ、ドラマ、作画演出。これらの要素はとても重要で欠かすことが出来ない。最近のよく出来たアイドルアニメはそのことを良く分かっていて、これらをどれも取り揃えて上手く作り上げている。
しかし、アイドルアニメには、演出面でもう一つ追加出来る要素がある。というのも、アイドルとは元々アニメのようにテレビの中にいる存在だから。・・・少し難しい話になるので、過去のアイドルアニメとして大傑作だと思っているアニメ「GTO」の「グレートとろこおっぱい編」を例に挙げて説明したい。
「グレートとろこおっぱい編」は、ドジっ子のとろこが破天荒な高校の先生オニヅカの指示に従ってアイドルのプロデュースをしていく話。オニヅカの指示は無茶な事も多いけれども、それをとろこは健気にこなしてアイドルのグランプリに挑む。しかし、ライバルの大手プロ所属アイドルによる票操作などの妨害によってグランプリでは結果を出せずに終わってしまう。しかし・・・、という話。
この物語の中で、アニメを見る視聴者はとろこの健気な努力を延々見せつけられる。となると当然とろこの事を応援したくなる。彼女が結果を出すであろうことを期待する。しかし、その結果は出ない。物語は彼女が報われない方向に進んでいく。しかし、この作品を見る視聴者の中にある「とろこを応援したい」という気持ちだけは確かに残る。そして、その視聴者の気持ちは、実は物語の中で実際にところを見ていた群衆も同じであり、それが物語のクライマックスで証明される・・・。
アイドルアニメとは、本来的にメタ構造を持っている。物語の中で応援されるアイドルをテレビの外側から応援するという。メタ的な構造を持つ物語は、物語の内外の同じ事象をシンクロさせることによって、物語の中に入り込んだように感じさせることが出来る。
なので、実はアイドルアニメにおいて最も遣って欲しい演出とは、物語の中のアイドルを応援していることを、まるで現実のアイドルを応援しているように感じさせる「バーチャル感」。
その為には、まず主人公が応援したくなるキャラじゃ無ければならない。応援したいと思わせるエピソードを積み上げなければならない。
そして、アイドルを応援する群衆は「しばらく見えてこないように」描かなくてはならない。なぜなら、主人公のアイドルを応援する視聴者の心は個々の視聴者の中にしかない不確かものであり、それを視聴者自身が自覚する前に画面に提示してしまうと、視聴者の心そのものでは無くなってしまうから。
アイドルが上手いパフォーマンスをする→ファンが増える。それは当たり前の流れでありアイドルアニメではすぐにそのように描写してしまいがち。しかし、それではアイドルアニメのメタ構造が生かせず「バーチャル感」が出てこない。
実際のところ、過去のアニメ作品においてこの事まで意識して演出を構成している作品があったかというと、明確なものでは先に例に挙げた「GTO」くらいしかないかもしれない。というのも、アイドルアニメにおいて観客の目線に立つ演出というのは結構難しいから。アイドルアニメの大傑作アニマスの幾つかのエピソードでそれを感じさせるところがあったくらいか。
ともあれ、「ろこどる」。この作品の凄い所は、主人公なにゃこを「見守っている感」が非常に強いということ。それが「バーチャル感」を掻き立てる。
視聴者の視点はゆかり先輩であり、変態マネであり、叔父さんであり、街角の人々であり。ろこどるだから一つのステージをしたからといって、それほど観客の反応が良い訳ではない。しかし、なにゃこの一生懸命さは良く伝わってくるし、視聴者として彼女を応援したいという気持ちだけは残る。そして、それはきっと流川市民の気持ちと同じであり、まるで物語の中の流川市民であるかのような気分になっていく。
第6話において全国放送に写った魚心くんと流川ガールズだが、それがきっかけとなってアイドルとしての人気が高まっていくとかの展開があたりしたらと思うと、もう堪らない。もう既に心は流川ガールズファンだ。彼女達のアイドルとしての人気の高まりを、物語の中に入り込みながら応援している自分がいる。これこそが、アイドルアニメに最も求めている演出だ。