ロコドルと、ノブレス・オブリージュと、無償の愛 〜【ろこどる】に究極のアイドル物語を夢見る〜

ロコドルはアイドルとして結構曖昧な存在だ。
アイドルは夢を売る存在であり、その夢は大きければ大きいほど意味が有るはずだろう。しかし、ローカルと銘打っている以上その立ち位置・目的はその地域に、つまり小さく限定されている。その成り立ちからして矛盾した存在とも言えるのだけれども、現在のアイドル戦国時代においては結構盛んで持て囃されている存在でもある。
きっと、元々は地元の小さな存在だったものが、もしかしたら大きくなるかしれないという夢が抱けるからだろう。実際にいくつかの先例もある。しかし、そうして成功して大きくなった時、本人はより大きな世界に想いが向かうだろうし、地方の仕事も疎かにならざるを得ない。そのアイドルは実際にはロコドルのままでは居られない。
ロコドルとは、地方にいるままではアイドルとして不確かなものであり、全国区になったらそのままでいることは難しい。そんな儚い存在のように思う。
普通の女子校生が【ろこどる】やってみた。」はそんなロコドルを描く作品として、その題が示すとおり主人公をよりローカル寄りの存在として描いている。
現実に多くの女の子がアイドルを夢見てロコドルになっているだろうが、その多くはロコドルを次の段階に進む足がかりにしたいという気持ちでいるはずだ。アイドルの夢を形作る欲求は「自己顕示欲」であり、それが自然なことだと思う。もちろん「自己顕示欲」は恥ずかしいものと捉える人が多いので、多くのアイドルはその欲をそのまま表に出すようなことはしない。自分で自覚出来ないくらい隠そうとする者もいるだろう。それはアイドルとして正しいあり方だとも思う。
しかし、この物語【ろこどる】の主人公二人は、そういった欲がまったく無い存在として描かれている。ななこは小遣い欲しさから親族の手伝いとして、ゆかりは資産家の社会勉強として。どちらも実在のロコドルの動機としてありそうだが、物語ではそれを主人公の心理面から描写しているので、絶対的な真実として保証された動機となっている。
彼女たちは只々地方の為だけに活動する。それは非常に純粋な、しかしある意味特異なロコドルと言えるのかもしれない。本来のアイドルの動機としてあるべきものが全く存在しないのだから。
しかし、ならばなぜ彼女たちはアイドルとして活動し続けられるのか。そこにこの物語の真の意味が含まれている。
ゆかりのアイドルの動機から見ていきたい。彼女は資産家の娘であり、ななこと出会う前から、家訓として一人暮しをして社会貢献とも言える仕事をこなしていたようだ。その精神は「ノブレス・オブリージュ」、持てる者の責任を果たすという義務感に満ちているようで、その崇高な精神が彼女の完璧なロコドル活動にも繋がっているだろう。
しかし、そんなゆかりがロコドルになることを決める直前、ひとつの偶然の出会いによってその精神に大きな影響を受けている。その出会った人物こそななこだ。
ななこは文字通り普通の女子高生だ。精神も能力も容姿も経済力も平均的。普通であることが唯一の取り柄、と言っても良いくらいの女の子だ。しかし、そのななこの「普通」こそがこの物語では最も力のある、特異な意味を持っていく。
ななこは日直の仕事をする。それが普通だから。ななこは叔父から引き受けたバイトをやり遂げる。それが普通だから。ななこは地域の為になることをする。それが普通だから。ななこは自分を犠牲にしても他人の役に立つことをする。それが普通だから。
ななこという少女は、おそらく親から「人の為になる人になりなさい」と言われて育ったのだろう。そして、それが当たり前の「普通」として精神に宿っている。
だからこそ、他の人がサボっちゃえば良いという日直をやり遂げるし、少しきついバイトだったとしても、バイト代をもらっている以上割に合う合わないに関係なく完遂する。地域の為になることだと知れば、率先して行動するし、困っている子供がいれば、自分の損を考えずに行動してしまう。それが、ななこにとっての「普通」だ。
ゆかりは、そんなななこの「普通」を目の当たりにしたときどのように感じたのだろう。ゆかりの「ノブレス・オブリージュ」は、崇高な精神ではあるものの、ある意味持てる者の地位によって保障された上での行動だ。その行動自体が貧富の不均衡という歪みをあるべき姿だと思わせるという代償も期待している。ゆかりは自分の立場からその行動を正しいと思いつつも、しかしどこかに疑問、もしくは物足りなさを感じていた節がある。
ななこは持てる者としての地位を持たない。にも関わらず人のために行動し、自分を犠牲にすることを厭わない。それをごく自然な他人に対する当たり前の親切心だと思っている。そんな真の意味の「無償の愛」をごく普通のこととしている少女を見たとき、きっとゆかりは「救われた」のだろうと思う。自分に地位があるか無いかは関係ない。人のためになる事をすること、その「無償の愛」の精神は、誰にとっても当たり前だということに気づかされたのだから。
ななこの普通=「無償の愛」は、ゆかりの「ノブレス・オブリージュ」を救い、また、流川のろこどるチーム全体の精神的核となっていく。ななこが普通だと思い行動するからこそ、流川ガールズと魚心くんには明確な動機が存在し続け、活発な活動を続ける事が出来る。
無垢とも言える精神によって形作られた「無償の愛」を持ち、その「無償の愛」を持つが故、ちょっとした偶然によってロコドルという形でアイドルになった少女。
アイドルとは人から愛される存在であり、人から愛される存在とは、愛されるに足る夢や自分を持っていなければならない。しかし、アイドルはアイドルを目指した時点でおのれの中の自己顕示欲の存在を他人に表明しているとも言え、その存在しているモノをどのように好意的に受け入れて貰えるかに腐心することになる。
しかし、そのアイドルの心が「無償の愛」によって形作られているとしたらどうだろう。そんな無垢な心を持った存在がアイドルとして認められたとしたら、それこそが「究極的なアイドル」と言えるかもしれない。
ロコドルは儚い存在だ。地方にいるままではアイドルとして不確かなものでしかない。しかし、いつか全国区の真のアイドルに成り得る機会を持ち合わせている存在でもある。
【ろこどる】の視聴者である私は、ななことその流川のろこどるチームが「無償の愛」によって動いていることを「知っている」。物語上、その存在はローカルの弱小アイドルとして世間の目に止まることは無い。しかし、いつかその私の「知っている」ことが世間に伝わるとしたらどうだろう。それは究極のアイドルが生まれる物語となるのかもしれない。
また、そのように感じる事、もっと多くの人に知ってもらいたいと願うこと自体が実際のアイドルを応援する心に等しい。実際のアイドルを応援する心と同じ心を持たせるという意味でも、「普通の女子校生が【ろこどる】やってみた。」は究極的なアイドル物語と思っている。