アニメにおける「殺人」の重さ 〜「SAO」と「劣等生」を比較する〜

ネットで「殺人」とか書き込むと色々怖いことになったりするのかな。けど、この事は書いておきたい。
ソードアートオンライン」は非常に優れたアニメ化ラノベ作品だと思っている。「ネットゲームの死が本当の死になってしまう」=デスゲームという設定は、実際には結構ありきたりだろう。PCゲームやネットが登場した頃から頻繁に利用されている設定だと思う。しかし「SAO」が優れている点は、そのデスゲームの設定を逆に利用して、ネット社会における人の精神や生命の意味についてまで深く考えさせているところ。この題材の前例が無い訳では無いが、高いエンターティメント性を保ちつつ、こういった哲学的とも言えるテーマにまで切り込んでいるところが実にクールだと思う。全世界的に評価されるはずだ。
そして、「SAO」はこのように生命の意味について深く考えさせる立場を取っている為、人の命の描き方がとても丁寧だ。主人公キリトは、ゲーム世界では誰よりも強い存在として描かれているのだけれども、その彼が心ならずもデスゲームを介して自己防衛の為に実際に人を殺してしまったことを、「乗り越えられない傷」として心に持ち続ける事になる。
人が人を殺すと言う事は、自分の生の為に他人の生を閉じてしまうということ。その重さは、その人の心の有り様すら変えてしまうほどの重大事として描かれる。
日本のようにある程度の治安が守られている平和国家において、死は遠くにある存在だ。ましてや殺人などは、どんな社会においても本来的に異常な行動だろう。「SAO」では、主人公が己の犯した殺人に苦悩することで、生命の重さや当たり前の平和の大切さを描いていると言える。
ところが、こういった考え方と、ある意味全く正反対とも取れる描写に満ちた同じ電撃文庫のアニメ化ラノベ作品がある。それが「魔法科高校の劣等生」だ。
魔法が科学の様に解析された未来の高校で、無敵とも言える魔法を持つ主人公司波達也が、仲間と共に学園の平和を脅かす悪逆な敵と戦う話だ。
敵は己の利益のために殺人すら躊躇しない存在であり、平穏な学園生活を壊そうとする。司波達也と仲間の学生はそんな敵に敢然と立ち向かい、戦争とも言える殺し合いをすることになる。主人公は人すら瞬時に消してしまうなどの能力で敵を「駆除」していく。
司波達也は、実は無敵の魔法力を得る為に感情が無い存在として描かれている。なので、彼が人を殺す事について全くの躊躇が無い。また、彼に匹敵する能力を持つ一条将輝も学生ながら戦争経験があるらしく、敵を惨たらしく爆死させることになんら躊躇しない。彼ら二人だけで何十人もの人間を「消して」いるだろう。
それどころか、彼らの魔法科高校には常人の能力を超えた学生が多く集っているため、彼らは自分の身は自分で守るという精神の下、戦争状態の中で敵を殺す事を厭わない。当初、ごく普通の学生であったと思われる者も、魔法の力を人を殺す力として身に付けていく。
相手が人を殺す事を厭わない存在だから、自分たちも身を守る為に人を殺す事を厭わない。そんな描写がただ続いていく。ごく平穏な、現代日本の学園生活に近いと思っていた世界が知らぬ間に戦争状態に突入し、現代日本の普通のメンタリティの持ち主かと思っていた登場人物達が淡々と人を殺していく。
また、主人公司波達也にはもっと凄い能力がある。損傷した人の体を時間を戻すかのように復元出来るのだ。なので、彼の仲間は誰一人として死なない。仲間を失わずに敵のみ殲滅することが出来る。さらに、仲間はより高度な技術による原子爆弾もかくやという殲滅兵器を持っており、それを敗走しつつも復讐を誓う敵に対して使用し、敵の完全な「消滅」にも成功する。
・・・これら「劣等生」の描写が良いとか悪いとかは云わない。ただ個人的に感じる事は「気持ち悪い」。
魔法力という万能とも思える能力を持ち、それなのに、相手が悪だと思えばその命を消す事になんら躊躇が無い。そういったメンタリティには、平和ボケした私はどうにも馴染めない。
とは言え、この「SAO」と「劣等生」という、正反対とも思える思考で作られた作品が同じ時期に存在し、どちらもエンターティメントとして評価されているということについては面白さを感じている。両作品を並べてみて、これらを同時に受け入れる現代オタク文化全体のメンタリティを考察するのオツなモノだろう。