「世界と戦う勇者」としてのアイドル星宮いちご 〜劇場版アイカツ!を語る〜(ネタバレ)

素晴らしい出来の劇場版だった。これは正にアイカツテレビシリーズいちごパートの最終回。テレビシリーズで描き切れなかったいちごと美月の戦いの、真の決着をつける物語。それはアイカツというアニメ作品において最も描くべき物語の根幹を真正面から描くということ。それが素晴らしい出来にならないはずがない。

  • いちごパート「真の最終回」として

この劇場版の物語は、実はテレビアイカツの第2部の最終展開トゥインクルスターカップにおけるいちご対美月の一種焼き直しとも言える。しかし、テレビ版では第2部でダブルヒロインとなったセイラを活躍させる必要があったことと、美月が伝説の二人組アイドル、マスカレードにこだわりをもっていたという事が繋がり2対2の対決となった分、いちごと美月の対決そのものは少しぼやかされていた。
それがこの劇場版では、いちご主催による「大スター宮いちご祭り」の開催とその成功により、いちごと美月、二人のアイカツランキングが入れ替わるだろうという展開になる。正に純粋にいちごと美月、「二人の対決」に決着がつくことになる。
この「二人の対決」については、単純にアイカツランキングの上下だけで片付くものでは無い。実際には、いちごと美月は「アイドルとは何か」というアイカツと言うアイドル物語において最も重要ともいえる「アイドルの価値観の対決」として戦っていたといえる。

  • いちごと美月、「アイドルの価値観の対決」

この「アイドルの価値観の対決」は、その展開をもう少し正確に説明すると、アニメ第1部の1年目はいちごが大スター美月に出会い、ただがむしゃらに立ち向かって敗れた話だった。その時はまだ、いちごは自分の持つべきアイドルとしての価値観を自身で認識していなかったといえる。しかし第2部では、一年間のアイカツ武者修行を終えてもどったいちごが、より明確に美月とは違った価値観をもって行動し、最終的に美月とその価値観を賭けて戦うことになる。
ただ、この事については、アイカツという女児向けの楽しいアニメとして構成される物語の中では、実はそれほど明確に表現されてはいない。いちごは常に美月をリスペクトしていたし、美月もミステリアスな行動を取っている大スターという位置づけになっている。そしてこの劇場版でも、実際にはそのようなテレビの描写の延長にある物語なので、やはり明確な表現とはなっていない。

  • 「アイドルの価値観」を持ったいちご

しかし、この「二人の対決」は実際にあった。それは、第2部のいちごの行動に表れている。いちごは幼少時の美月に倣うかの様に一年間の武者修行を行い、力を蓄えて帰ってきた。しかし、帰ってきたいちごは、美月と同じようなトップスターを目指す行動を「しなかった」。
いちごは、ドリアカからの挑戦を受け、仲間と共にアイカツし、他のアイドル達に埋没するかのような行動しかしなかった。いちごがそれしか出来なかったという見方もあるだろう。しかし、美月に憧れて、見続けていたいちごだ。それになにより、いちごの傍らには優秀なブレーンである霧矢あおいもいる。いちごが美月に比べて何が足りないか=何をしていないかという事は分かっただろうし、助言もできたはずだ。しかし、いちごは動かない。そこにはいちごなりの「アイドルの価値観」があるからこそ、美月のような行動をとらなかったという理由しか考えられない。あおいもいちごの意志を感じているからこそ何も言わなかったのだろう。
そして、よりいちごの意志を表す決定的な行動が、「あかりの登用」だ。美月ならあかりを絶対に選ばないだろうことは、トライスターメンバー選抜面接のときの美月の言動からも明らかだ。いちごは、シリーズを通じても最も真剣な態度であかりを選んだ。それは、その選択があかりという少女の運命を、自分の「アイドルの価値観」=美月のものとは別の自分自身の信念に重ねることに強い責任を感じていたからだろう。

  • いちごと美月、二人の価値観

美月の「アイドルの価値観」とは「実力主義」だろう。アイドルは、より多くの人に喜んでもらうためにより高い実力を持たればならず、その使命は幸福を与えること。つまり、アイドルとは「実力主義」で「利他的存在」であるべきという価値観だ。
しかし、美月の自身を極限まで追いつめるほどの「実力主義」「利他的存在」に対し、いちごはどこかが違うという意識を持っていた、らしい。らしいというのも、いちごは決して美月の行動に対して疑問を呈しないからだ。
しかし、いちごは「いちごパニック」で感じた実力で長じたアイドルが他を押しのける事への意識や、蘭のトライスター加入に伴う歪みなどを通じて、アイドルの存在意義が「実力主義」「利他的存在」だけではないと思っていったようだ。だからこそ、憧れの存在である美月が何かにつけ競争原理や拡大意識を働かせているのに追随せず、まるで遊んでいるかのようにドリアカを含めた他のアイドルと協調路線を進んでいた。
いちごの中にあったアイドルとしての価値観は「精神主義」であり、「利己的存在」であるということ。なによりアイドルとはアイドルとして自分が楽しむ存在であり、それがあれば観客も喜ばせることが出来る。そして、そうやって自分と他人を喜ばせる為に一番重要なのは自分の心=「精神主義」だと、いちごは思っていたように思う。
美月の「実力主義」「利他的存在」と、いちごの「精神主義」「利己的存在」。正に鏡のように違う「アイドルの価値観」によって二人は対峙し続けていた。

  • 劇場版で語られた美月の心情

劇場版の白眉は、何と言っても今までミステリアスなままであった美月の心情について、本人からかなり核心めいた事が語られたシーンだろう。
大スターいちご祭りを終えて、いちごはついにアイカツランキングで美月を抜き、トップに立つ。その時、美月はいちごに対して、感謝の意を表す。
若くしてトップに立った自分は、その後アイカツ界を引っ張る為にトップに立ち続けなければならなかった。その為に自由なアイカツすら出来ていなかった。その責務から解き放ってくれる者をずっと探していて、いちごこそが、最初に見た時からそんな自分を解き放ってくれる者だと思っていた・・・
美月の「アイドルの価値観」である「実力主義」で「利他的存在」であることは、お仕事でもあるアイドルとして当然の事だろう。それがあるからこそアイドル業界は成り立っている。
しかし、それだけではアイドルは成り立たない。アイドルは夢を見せる者であり、技術を売る者ではない。ファンと本当の意味で心が繋がる者として、本当の意味でのアイドルであるためには、なにより「精神主義」であり「利己的存在」でなくてはならない。
そういった別の価値観によって自由なアイカツをし続け、その結果としてアイカツ界のトップに立つ者いちごが現れたことにより、トップを走り続け自分を犠牲にするかのように孤独な戦いを続けてきた美月は、ついにその戦いから解放され、やっと本心を語る事が出来たのだろう。

これらのことは、実際にはアイカツという作品において非常に把握しづらいレベルで語られていたように思う。
その理由は、先にも書いたが、一つには女児向けアニメとして、アイドル同志が対立するようなギスギスした展開を避けたいということがあっただろう。
しかし、もう一つの理由もあるはずだ。それは、アイカツが元々は筐体ゲームであり、ゲームとして競うことがアイカツ世界において最も根本的な要素だと言う事。
つまり、美月の「実力主義」からくる競争原理は、ゲームであるアイカツとしては、決して否定すべきでは無い要素だと言える。競争を否定することは、ゲーム「アイカツ」のシステムを否定することにも等しいのだから、その部分をアニメ「アイカツ」としてことさら取り上げることは出来なかったのではないかと思える。
美月は競争原理の権化とも言え、それはつまりゲーム「アイカツ」の象徴とも言えるのかもしれない。
しかし、アニメ「アイカツ」の主人公星宮いちごは、そんなゲーム「アイカツ」の競争原理とは全く逆の価値観を持つ。
この対立は、まるで神話のようだ。
アイカツ世界は競争原理によって支配され、そこでは原理の象徴である夜の女神、トップスター神崎美月が君臨している。
そこに現れたのは高貴な血を引く勇者、星宮いちご。知恵と力の象徴の二人のお供を従えて、闇の女神に戦いを挑む。
一度は敗れるが、一年の放浪の旅によって闇と対を成す力を手に入れ、闇の世界そのものに対して反旗を翻す。
闇の女神が裏で糸を引く学園からの挑戦も難無く躱して味方に引き入れ、より大きな力と成って女神に対して最終決戦を挑む。
結果、夜の女神は闇から解放され、大地の象徴である勇者、星宮いちごの新しい世界で、次の世代も育っていく・・・
アニメアイカツの第1部と第2部は、星宮いちごと神崎美月の二人のアイドルによる、アイドルの価値観を賭けた一大叙事詩だった。そして、その真の決着を描いた物語こそがこの劇場版アイカツ!だろう。
非常に壮大な物語の決着に立ち会えた気分だ。素晴らしい劇場版だった。