今更のように言われる「オタクの融解」の虚しさ 〜オタクとは、本当は何で出来ていた?〜

年明け恒例の、愚にも付かない真っ暗なオタク談義ですよw。
どうやら世間では今更のように「オタクの融解」みたいな事が言われているらしい。そしてそれが「寂しい」とか。
なんか虚しいなあ。なんというか、それって全然別のところで別の感覚で言われている気がしてならない。
イメージじゃ、オタクが一般的になって、日本どころが世界にまで受け入れられている。昔はごく少数のものだったけど、今ではそれがみんなのものになって、沢山の人が入ってきて嬉しくもあり、どこか寂しいという感じなんだろうか。
けれどもそれって、感覚的に全然違う。
オタクは融解して、解体して、消滅したよ。それは間違いない。いつのまにやら「中二病」という言葉に置き換えられて作品世界に残っていたりもするけれども、それはオタクそのものじゃない。
中二病」というのは実に上手い表現で、オタク的な感覚を自分自身で顧みて認識したときにぴったりくる。つまり、それって「正常な」今の自分からしたら過去の自分は逸脱してたよね、という更生者による定義。常識的な日常を認めて、非常識な過去の自分を愛おしむ感覚。オタク的なものを常識の世界に落とし込もうとする表現だ。
けれども、オタクってそんなもんじゃない。例えば中二病がカッコイイとか自分から言っている時点で中二病でもオタクでも何でもない。単なる逸脱を楽しむだけの偽ヤンキーみたいなもの。そんなのが蔓延しているとしても、そこにオタクは一かけらも存在しない。
結局、オタクってものの本質が理解されていない。まあ、オタクの定義づけ自体様々な状況のまま今まで来てしまっているから、当然と言えば当然なんだけれども。お前だけオタクを知ったかぶりするな、と言われればそれまでだし。
けれども一つだけ言えるのが、オタクと言うのは本当は底辺からしか語れないということ。今までの多くのオタク論は、元々底辺にあったオタクを上の地位に押し上げようと元オタクだったけれどもオタクから脱した人とか、オタク文化の利権に群がってきた似非文化人が語ったものばかりで、どれもが自分の地位向上(併せてオタクの地位向上)を意図して都合良く改変したものばかりだった。
オタク文化っていうのは、本来鬱屈したもの。なぜならオタク文化は若者とか、社会に対して適合しない鬱屈した者が求めた文化だから。
オタク文化は、元々社会に対して鬱屈している者達にとってのシェルター。シャカイに対して解放されているシェルターなんて、シェルターでも何でもない。そこは外の世界と同様の地獄だ。そんな地獄が今のオタク文化であり、今受け入れるべきものだと言われたら、もうそこから逃げるしかない。もうそこにオタクは居られない。
もう少し俯瞰的に、歴史背景から語ろうか。
若者文化がカウンターカルチャーと言われた1960年代からとか。世間にある文化に対抗すべく、ロックなどのカウンターカルチャーが生まれて、若者や社会に適合して居ない者が逃げ込んだ。そのシェルターにはまだ世間に馴染めない鬱屈した若者の思いがあり、その中にいることがきっと心地よかったはずだ。これってオタクの生まれに似ている。
しかし、そうして作り出したカウンターカルチャーも、それを支持する若者が大人になって社会の一員になることで、どんどん一般化していく。第二の文化としてサブカル化していく。それはもうカウンターカルチャーでもなければ、鬱屈した者が逃げ込むシェルターでも無くなっていく。
けど、鬱屈した者は逃げ込むシェルターを求めるもの。カルチャーもカウンターカルチャーも現実の文化その裏表どちらにも逃げ込む場所がなければ、どこに逃げ込めばよいのか。そこで見出されたのが現実の裏側、非現実を愛する文化。カウンターリアルカルチャー、オタク文化だ。
非現実を愛する文化なぞ、世間からそう簡単には認められないもの。だからそのシェルターとしての機能は思いの外長く続いてきた。けれども、今日に至るオタク文化隆盛の歴史は今では誰もが知るところだろう。今となってはオタク文化を世間が受け入れてしまい、オタク文化がリアルに取り込まれている。
いや、今世間に取り込まれているのはオタクじゃない。オタク文化の中のカウンターリアルカルチャー=非現実文化が、誰もが楽しめる文化として受け入れられているにすぎない。
鬱屈した心を慰めてくれるもの、逃げ込むべき場所では無いものをオタクは求めていない。それはオタク文化そのものではない。
こんな事をいっても、誰も理解しないのかなあ。今、オタクについてモノを語るのは少なくともエヴァによってオタク文化に入ってきた人以降だろうし、そんな人たちからオタクの定義が歪み始めたように思うから、もうそんな人たちが主流、若しくはそれよりさらに先に進んでいる世間に対して、オタクって言葉で何を言っても意味が無い気がする。
けれども、この文化の底辺にはそういった者達が確かに居て、この文化の奥底に潜んで心安んでいた。
そこに新しい空気がどんどん入ってきて、中身がどんどん入れ替わってきて、なんだか知らない内に本質がすり替えられていて、実際には心地よく無いもので溢れている。
こうなったら、そこをそんな心地よく無い物から逃れるためのシェルターにしていた者はスゴスゴと退散するしかないではないか。それこそ、誰にも知られる事も無くひっそりと消えるしかない。
そしてオタクは消えていく。
けれども、実際には鬱屈した若者、世間に馴染めない存在はどの時代にも居る。今オタク文化と呼ばれるモノがそれの受け皿で無くなったとしたら、また別の文化を求めることになるだろう。文化から逃げても、現実から逃げてもそこか世間と地続きだとしたら、本当に今度は逃げ場所を見出すのは難しいだろう。これからの鬱屈した者達の行く先が気がかりだ。
僕はこの心地よい場所から逃げるのがとても嫌だったから、こんなオタク分析みたいなことをし続けて、自分の好きな物がどんな別モノにすり替わっていくのかを確認してきた。そして、それらを受け入れられるかどうかを見定め続けてきた結果、なんだか、別モノでも耐えられる耐性がついた「オタクゾンビ」みたいなものになってしまってる気がするw。
もうオタクはこの世のどこにもいないけれども、こんなオタクゾンビは、まだ他にもどこぞの底辺で蠢いているんだろうなあ。