神楽坂ゆか セカンドコンサート “またするの?”トクン···胸きゅん♡あばんちゅ〜る 中野サンプラザ

なぜ、田村ゆかりは神楽坂ゆかを立ち上げたのだろう。この問いは結構難しい。自分なりにも明確な回答が出せないでいる。
一つには、自身の生み出した「若さのペルソナ」とも言うべき存在が一人歩きし始めたという事が有るだろう。それは一寸した思い付きがつい面白くなって広げてしまった、偶発的に生まれた、というもの。
しかし、その「若さのペルソナ」をここまで大きく確固たる存在にするには、田村ゆかり自身の活動にかかる何らかの目論見があるはず。
神楽坂ゆかという存在がいる事によって、田村ゆかりになんのメリットがあるのか。
それは、別コンテンツで2倍稼ぐなどという浅墓なことでは無いように思う。なぜなら、そんな「若さのペルソナ」を作ることは、ファンに田村ゆかりの年齢を意識させることであり、場合によっては自身のマイナスのイメージに繋がりかねない。こんな危険な事を敢えてするのは、ただの安易な利益追求でも面白がっているだけでも無い、何らかの戦略があってもよいように思える。
つい人の深層心理などを下世話に想像してしまう癖のある者としては、実は一つの仮説を持ってはいる。ただそれは、これは戦略でも何でもない、田村ゆかり自身の欲求によって生み出された人格なのではないかということ。
田村ゆかりは、自身が常々何を「演じている」かは認識しているだろう。どんなにトークで自身の歳相応の事を語っていたりしても、やはり彼女の魅力を支えているのは「永遠の若さ」、「少女らしさ」だ。田村ゆかり自身がそれを最も尊いものとして愛してやまない存在であることは、彼女を見れば明らかだ。田村ゆかりは「少女らしさの権化」と言っても良い。
しかし、同時に彼女は広い世代のファンの心を掴むことが出来るほど聡明な、大人の女性でもある。そこには大きな矛盾があり、その矛盾は彼女自身の年齢とともにより拡大しているはずだろう。
だからこその「ペルソナ」なのかもしれない。無意識下で心を圧迫し続ける矛盾から逃れるために、彼女自身が無意識に「強く求めている」ペルソナこそが神楽坂ゆかなのかも。そこには、戦略などというものは無い。
ゆかたんライブの中で、毎回恒例と成って居るのが、ゆかたんとゆかりんの会話のシーン。ゆかたんは若さゆえの少し浅薄な立ち居振る舞いを見せるのだけれども、それをゆかりんは慈愛に満ちた、まるで母性を感じさせるような態度で応じる。そこにいる田村ゆかりは、実際にはいつものゆかりんライブで見せている「ゆかりん」ではない、全き大人の女性である田村ゆかりだ。
田村ゆかりにとっては、そんな立場に立つこと、神楽坂ゆかという「若さのペルソナ」を脱ぎ捨てた「田村ゆかり」になることが、どことなく心地よく、心の底からの欲求として感じていることなのかもしれない。
田村ゆかりゆかりん」は、正に「当代アイドル声優のイコン」とも言える存在に成っている。オタク文化全盛の折、アイドル声優という存在が持て囃されているとして、そのアイドル声優のイメージにピタリと当てはまる存在こそ田村ゆかりだと言って良いだろう。
多くのオタク達の想い=信仰を受けてここまで大きく成ってしまったイメージ=聖像の裏にある、田村ゆかりの本心が求めて生み出した存在こそ、神楽坂ゆか…。そんな事を妄想しつつゆかたんライブを堪能する。アイドル声優オタク活動は一種の宗教なのでw、敢えてカルト的な言い方をすると、そこに一種の信仰による新たな生命の誕生=処女受胎的な神聖なものを感じさせる。
田村ゆかりという女神を信仰する声オタにとって、その娘神たる神楽坂ゆかもまた信仰の対象と言う事だろう。ありがたや、ありがたや。
いや、冗談抜きで、本当に楽しいライブだった。