孤高の存在、メガネ。仲間を見出せる、こなた。

らきすた」の最終回、それも落ちネタは「ビューティフル・ドリーマー」だった。京アニの「うる星」礼賛は、どんだけぇ〜。
てな訳で、「らきすた」と「うる星」を絡ませた文など書いてみたり…というのはちょっと嘘。この文、5日も前に既に書いていたものだったりする。一寸したシンクロニシティを感じる。
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オタクというものは、実は昔から作品内において表現されてきている。
その最も古く、最も強烈な存在感を持っているキャラこそ、アニメ「うる星やつら」の「メガネ」だろう。
この押井守の作り出したキャラは、その当時、未だ「おたく」という言葉すら確立していない時代に、このようなオタク的な存在がある事を、その身をもって世間に知らしめた重要なキャラだ。もしかしたら、オタキング岡田斗司夫は、このメガネによって確立したオタク像があったからこそ、ポジティブなイメージの「オタク」と言うものを、提唱しえたのかもしれないと思えるほどだ。(もちろん、この考えは主客が転倒しているのだが、そのような流れが少しでもあったかもしれないと思える。)
ともあれ、メガネというキャラは、日本のオタクの始祖的な存在と言っても良いだろう。
そのメガネというキャラの重要なイメージとして、「誰からも認められない、孤高の存在」というものがある。
メガネは、主人公あたるの悪友4人組の一人として、常に仲間とつるんでいる。しかし、それは表面だけの付き合い。彼の心は常に孤独だ。メガネは、自分の極端な思考が、誰からも受け入れられないであろう事を、自分自身で理解している。いや、誰にも理解されない思考をもっている事を誇りにすら感じている。何故なら、メガネの思考は凡百の一般人とはかけ離れた崇高なものだから、少なくとも自分ではそう信じているからだ。
メガネが気を許すのは、おそらくメガネと同等以上に自身の趣味を、その精神性によって極めあげた人間、つまり同類のディープオタクだけなのだろう。しかし、彼の周りにはそのような者は一人も出てこない。その当時の現実世界でも、オタクとは異端の存在だったからだ。
そんなメガネの孤独、強さ、悲しさを、当時のオタク達は共感を持って受け取り、賞賛を送っていたに違いない。
時が下って現在。
オタクの象徴的なキャラクターとして、「らき☆すた」の「こなた」というキャラクターが登場した。
こなたは、ディープなオタク生活を満喫しながらも、一般生活に自然に溶け込んでいる。
もちろん、こなたの言動は周りの人間から奇異に見られる。それはメガネと同じだ。けれども、こなたは決して孤独ではない。今のオタクは、その趣味が少しずつ世間に浸透している事を実感する事が出来るからだ。
こなたのオタク趣味に批判を持って対する一般人かがみも、こなたの事をあからさまに軽蔑しない。彼女自身、自分がラノベ読みとしてオタク文化の一部をかじっている事を認識しているからだ。だからこなたと一緒にアニメイトなどに付き合ったりもする。
また、こなたはその行動範囲を広げれば広げるほど、自分の同類が存在する事を確認していく。自分の担任先生は重度のネトゲ廃人だし、下級生には完全な腐女子がいる。オタク留学生などという国際的な存在すら現れてくる。
こなたは、決して一般人の思考に妥協しない。自分の趣味を貫いている。自分の趣味の為に、他人との関係を捨てる事すら厭わないくらいだ。(こなたは基本的に現実の人の名前を覚えない)それは、メガネのメンタリティと同じような部分があると言える。(もちろん男と女、ミリオタと萌えオタの違いとかはあるが、それはここでは問題とならない。二人はオタク的な存在の象徴として取り上げられたという点で同じ位置にいるからだ。)
けれども、こなたはメガネと違って孤独になる事は無い。その違いは、二人の住む環境の変化によって生じていると言えるだろう。そしてそれは、現実世界においても同じような状況にある。オタクという異端が未だ受け入れられていなかった昔と、オタクが広く浸透し、受け入れざるを得なくなってきている現在の違いだ。
メガネは物語上脇役として登場し、その思考によって常に負け続けていた。そして、こなたは物語上主役として登場し、その行動は常に認められ続けている。
メガネとこなた、二人の境遇を比較するに、オタクとは随分と幸福になってきているのかも知れない。少なくとも「らき☆すた」という「幻想」を見るにつけそう思う。
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しかし、それがやはり「幻想」でしかない、という話もある。「らき☆すた」が「幻想」でしかないからこそ、この作品はオタクから求められるのだと。
世間がオタク文化に染まってきているのは間違いない。しかし、オタクの境遇そのものは、決してそれほど変化しているわけではないようだ。
もしかしたら、一番変わって来ているのは、「メガネ」を賞賛するのではなく、「こなた」に憧れるようになった、オタクの心そのものなのだろうか。
これは、世間にオタク文化が蔓延する中で、オタクという存在そのものが自立する強い意思から、協調に逃れる脆弱なものに変わってきている事を表しているのかもしれない。
そのどちらの在り方が、オタクとして良いのかは分からないが。