ef−a tale of memories. 第8回

なるほど、ここで千尋の「崩壊」が来てしまうのか。
なぜ、今回千尋はこれほどまでに記憶を留める事に固執したのか。それは、彼女の「記憶障害」という「ずれた」部分を、もっとも嫌われたくない存在、蓮治に嫌悪される事を恐れたからだろう。
前回、蓮治は千尋の言動を見て「恐怖」してしまう。それは、千尋が記憶障害を持ちながらも長く記憶を「保ってしまった」事で生まれた慣れに、正常な人間との決定的な違いを見てしまったから。千尋は、日記に自分の記憶の大部分を依存している。そして、「思い返し」による長い記憶の継続の中、その日記の文字の中に「感情」も依存する事に慣れてしまった。
その人の感情が「心の中」にあるのではなく、「日記の中」「文字の中」にあると知った時、そこで育まれた恋愛感情を信じることが出来るだろうか。それは、人だと信じた物が人形だった時に感じる恐怖心と似ているだろう。しかし、人の感情の何を持って「本物」とする事が出来るのか。実際にはこれは人の抱く「錯覚」に過ぎない。蓮治はそんな錯覚を暴きだす千尋という存在そのものに恐怖せざるを得なかったとも言える。
蓮治は、千尋に「日記に書かないで欲しい」と願うが、そんな事は願うまでも無い事だろう。彼女にとって蓮治は大切な存在。そんな大切な存在に「恐怖された」という記憶は、千尋の中で、例え忘れたくても、日記に書かなくても、何度でも「思い返して」しまうに違いない。
千尋が無謀にも人と同じ記憶を望み、睡眠時間を削っても「思い返し」に固執したのは、その裏で「忘れたい」という彼女の本心があったはずだ。千尋にとって、忘れる事こそ本質。それが自分を守る術になる事も知り抜いている。蓮治を、いや、思い返しを続けた期間の人生そのものを無くしたくないという思いと、蓮治に恐怖された辛い記憶を忘れたいという思い。その両者を秤にかける事もできず、ただ二律背反の中で「崩壊」に向かって進むしかなかったという訳だ。
ところで、そんな千尋と、前回精神を崩壊させかけたみやこが、ここでも対比する関係になっているのも面白い。ここで、みやこと相対するのは景。みやこに対した時の景は、まるで千尋の反面のような、まったく正反対の存在となる。千尋は記憶を残そうとするが、景は記憶を消そうとやっきになる。そして、最後に千尋には絶望しか残らないが、みやこには希望が生まれる。
みやこには、おそらく救いがあるのだろう。彼女が最後に救われる事は、この世界を司っているかのような存在、雨宮優子の言葉からも、保証されているように思える。
しかし千尋はどうなのだろうか。今回の崩壊は、千尋にとって何度も繰り返している当たり前の出来事だろう。それが、まるで「死」と同じほどの重さを感じさせても、千尋にとってはそれが日常。千尋は「常に死ぬ」存在だからこそ、決して傷付かず、元と同じに「再生」してしまう存在なのだ。しかし、それは本当に「生きている」と言える事なのか。いや、「幸福」という言葉で表せる「救い」がある存在なのか。
もし、救いがあるとするならば、それはやはり「物語」なのだろう。蓮治との関係、その記憶は消滅してしまったが、「物語」はその文字の中に全てが残っているはず。そうでなければ「物語」ではない。
千尋という存在が、「物語」を介して如何に救われるのか。いや救われないのか。それこそが、この作品の眼目といえる。やはり、この「ef」という物語は、千尋を中心に回っていると考えてよいだろう。