秋葉原通り魔事件と宮崎勤事件

今回の「秋葉原通り魔事件」、突然の大惨事だったわけだが、実際には、それほど「突然」という印象がない。この事件は、今、このタイミングで起こるべくして起きた、そんな印象だ。もしかしたら、この事件を見聞きした多くの人がそう思ったのではないだろうか。
私には、この事件が何故だか「宮崎勤事件」とダブって感じられる。それは何故かというと、この二つの事件が「オタクという事象の『歪み』が頂点に達した時に、起きるべくして起きた事件」と思えるから。
宮崎勤はオタクじゃない」「秋葉原は単に人が多いから狙われただけだ」、つまりこの二つの事件とオタクは関係無い、という意見もあるかもしれないが、私はそうは思わない。宮崎勤はおたくの底辺に居た者で、その在り様が事件にまで届いてしまった例であり、今回のアキハバラも、オタクの街としてその存在が特異に成り過ぎたから事件が起きたと言える。
二つの事件の違いは、個人的な性向の事件か、社会的な性向の事件かという事。「宮崎勤事件」は、個人的な欲望を深めて行った結果、犯罪性のある精神と歪んだ形で結びついて起きてしまった事件。「秋葉原通り魔事件」は、社会的な欲求を得られず、欲求の対象を破壊する事で充足しようとする歪んだ思考と結びついてしまった事件。
この両者の背景に在るのは、どちらも「オタクブーム」という、世間から見れば眉を顰めたくなる様な現象だ。オタクとは、つまるところ「享楽至上主義者」の事。つまりその者たちのブームとは、社会における享楽至上主義の横行と言う事。この様な社会になると、どうしてもそこに存在する弱い精神の者から心の失調を来たし「墜落」していく。
そして、ではなぜ以前は個人的なものであり、今回は社会的なものなのかというと、それにも理由があるだろう。「宮崎勤事件」の頃「おたく」はまだ一部の特異な存在として世間に注目されていただけだった。そして、それを受け止める社会も、未だ経済的に余裕のある時期、つまりおたく文化の発展が見込める頃であり、おたく文化そのものの進退が云々されるまでに至らなかった。この頃のおたくの問題はあくまで個人の問題であり、その様な事件しか起こり様が無かった。
しかし、現在、オタクは万人が知る存在であり、万人がオタクになれる時代でもあり、それが経済を左右するほどの規模があるかのような情報すら流れている。そんな中、世間では、不景気、格差社会、物価上昇、老後問題と、暗い現実が蔓延している。世間の享楽主義の裏に、この様な現実の闇を見た時、そんな社会の真実を隠す「薄皮」を破壊してしまいたくなる衝動に駆られる・・・。この犯人は社会に潰されたといえるだろう。事件は、正に社会の歪みによって起こっている。
こんな事を思うと、最近ニコ動で流行っていた「ウマウマ」を思い出す。あれこそ正に、現代の「ええじゃないか」なのではないだろうか。
そして、このような事が起きると、世間はどう反応するだろう。「宮崎勤事件」の時は、一斉におたく叩きが始まった。それは、特異な少数勢力を叩くのだから、実に安易な流れだった。結局、個人の自制を促しても、おたくそのものの根絶には至らなかった。
しかし、今回は少し違うだろう。より広いオタク文化と、それを取り巻く現代社会そのものの病巣が関連している。これではおそらく、真っ先にオタク文化に対し矛先が向けらけるような事は無い様に思う。しかし、それだからこそオタク文化は冷静に分析されるかもしれない。その歪みの在り様を明確化させられるかもしれない。そして、世間の不況等と併せて考え、この文化を疑問視するという、根本的な動きが起きてくるかもしれない。
一オタクとして、居心地の悪い時代が来そうな予感がする。