赤松作品で「萌え」と「箱庭」をいろいろ語る

先日、樹木信仰の話から、萌えと箱庭について書いたのだけれども、その事が自分の中で少し引っかかっている。
「樹木信仰」が萌え作品と相性が良い理由(2009/1/26)
そもそも、萌えと箱庭の関係は自分の中で明確なイメージが出来ているのだけれども、それは曖昧なニュアンスでしか表現できていないのではないか。というのも、箱庭の概念は人が意識で感じる部分であり、明確な形にならないものもあるから。なので、それを赤松健の作品を題材にしてもう少し語ってみたい。
赤松健は、萌えが未だ世間に定着していない時期に、萌えの要素がほとんど存在無いマガジン誌に最初に現れた存在だ。そして、今では萌えを代表する漫画家と言ってよい地位を築いている。それだけに、彼の作品を年代を追って見て行けば、今の地位に辿りつく「精神的な過程」のようなものが見えてくる。今ここで語りたい「萌えと箱庭」についても、その過程が見えてくるのが面白い。

A・Iが止まらない! (1) (講談社コミックスデラックス (1253))
まず、アイとま。
ひとしというごく普通のコンピュータ好きの高校生が、実体化する女の子型AIサーティを作り出してしまい、色んな騒動の中少しずつ人間らしさを獲得していく彼女と恋仲になっていくドタバタラブコメだ。サーティーの他に、トゥエニー、フォーティと新たなAIも起動し、騒動も大きくなっていく。
さて、この作品で箱庭の要素はと言えば、ここでは明確な形としての箱庭と呼べるものが存在しない。特に最初の内は。
サーティという異分子が突然現実世界に登場し、現実の物事と衝突していく。その過程で騒動が起き、そのドタバタをギャグとして描く。つまり、現実世界に開けていなければ、ドタバタが生じないのだから、箱庭であってはいけない。だから、サーティがコンピュータウィルスに感染して消滅の危機に陥るなどという事も結構頻繁に起きる。萌えの対象であるサーティの人格そのものが不安定であり、萌え作品としてどうなのかという展開もある訳だ。
しかし、それが少しずつ変わっていく。サブキャラクターが出揃い始めた頃から、騒動にもある一定の枠が出来てくる。それは、サーティの内面が磨かれる物語。それに併せて、登場人物も主人公ひとしの関係者であったり、コンピュータ関係の人物などが、限定的に出てくるようになる。ある目的の為に、限定された世界が少しずつ生まれていく。つまり、それは一種の箱庭形成と言える流れだ。そして、気がついたら「主人公ひとしとその仲間達」という箱庭が出来ている。
アイとまには元々箱庭は存在しなかったが、作者が意識して一定の制限を設けることによって、少しずつ「箱庭的なもの」が形成されていったと言える。言ってみれば「作者主導型萌え箱庭」だ。
因みに、この「作者主導型萌え箱庭」は、ある意味この頃の萌え=オタク作品の王道といえる展開だったろう。というのも、あのオタク作品の金字塔「うる星やつら」が正にそうだったから。ごく普通の日常に、ある日突然異分子が現れ、その後運命的にその異分子が増えていって、気がついたら異質なフィールドが出来上がっている。そんな流れをどのオタク作品も丁寧にやろうとしていた。アイとまの元と言って良いだろう「女神さま」もその中の一つだし、今でも、この展開をやろうとする作品はオタク作品として「王道」的な雰囲気を醸し出すだろう。

しかし、「作者主導型萌え箱庭」には大きな欠点が有る。それは、箱庭形成が作者の構成力の手腕によるものなので、構成を誤ると形成できない事。特に、連載作品などで打ち切りなんかを食らってしまうと最悪だ。また、時代も変わり、最初から安定している萌えを求めている読者が多くいる状況になると、無から悠長に箱庭を作っている時間自体が勿体無いという事にもなってしまう。
そこで生まれたのが、設定先行型萌え箱庭、そして「ラブひな」だ。「生まれた」というのは少し間違いで、萌え作品に多く使われるようになったと言ったほうが良いか。
ラブひな(1) (講談社コミックス)
まず、萌えとなるべきフィールドをあらかじめ作っておいて、その中に主人公を放り込む。その時から箱庭の完成だ。「ラブひな」のストーリーは、東大を目指す冴えない浪人生景太郎が、ひなた荘という女子寮の管理人になってしまい、紆余曲折の内に寮の女の子達から好かれるほど成長していくという、正にハーレムもの。そのハーレム=萌えとしてのフィールドがひなた荘として始めから設定されていて、その中で様々な萌え的ドタバタが展開する。もちろん、外に出る事もあるが、それは正に「外」として設定されている訳で、ひなた荘が精神的に帰る場所で事は変わらないし、その意識があらゆる外の災厄からの逃げ場所を提供してくれている。
この設定先行型萌え箱庭によって、萌えにおける箱庭が明確な形を持ったわけで、それは今までの有るかどうかわからない精神的な箱庭よりも、より強い安心感を与えてくれることになる。それは、萌えにとってとても大きな力であり、クリティカルと言えるほどの爆発力があった。マガジン誌という萌えへの免疫性の無い読者も多い中、つまり一般社会にこの作品を提供した事は、萌えの歴史の中でも一つの大事件だったと言えるだろう。ラブひながべらぼうに売れたのも、正にその為。赤松健が萌えの第一人者になった瞬間だ。

ところで、この様に箱庭を明確に設定する事が、萌えに有効な事は立証された訳だが、それはもう一つの「副作用」も提示する事になる。
箱庭とは本来、登場人物たちの精神面のフィールドと言える。そして、それがひなた荘のように明確な形を持った場合、物語的に何が起きるか。物語が進み、登場人物達の精神活動が活発になると、その精神的なフィールドを保つ「力」が、箱庭自体に求められてくるのだ。例えば、ひなた荘の場合、無人別館の縁結び能力などに現れている。そのような力を持つ事が、ひなた荘の精神的なフィールドである事の象徴になり、より箱庭能力を強くする。
萌えの第一人者としての地位を確立した赤松健が新たな作品を作る際、やはり最初から明確な形での箱庭を用意した。ネギま麻帆良学園だ。
魔法先生ネギま!(1) (講談社コミックス)
ネギまは、子供の魔法使いネギが女子中学生31人のクラスメイトの先生になってしまうというもの。その学校、麻帆良学園は巨大な学園都市で、実は色々な仕掛けが施されている事が後でわかってくる。
例えば、学園結界。この麻帆良学園は元々魔法使いが多く関与していて、様々な外的を排除する為、学園全体に人為的な結界が張り巡らされている。これは、正に箱庭の結界としての能力が始めから設定されているといえるだろう。
さらに、麻帆良学園には世界樹と呼ばれる巨大な樹木が中央に立っている。これは魔法的な性質を帯びている樹である事がわかっていて、実際に学園祭の時には縁結びの能力を発動した。これは正にひなた荘の無人別館と同様の不可思議な力であり、精神的なフィールドを形成する象徴となるだろう。
ただ、ネギまの場合、これら学園結界にしろ世界樹にしろ、魔法による作用である事がわかっている。ネギまという物語自体が、魔法という事象を事細かく描写していく物語であるので、魔法=精神という事にはなりにくい。そういった点では、ネギまの箱庭は常に破られる懸念が付きまとうわけであり、精神的なフィールドとしての本当の意味での箱庭ではなくなりつつあるのかも知れない。それは、ネギまが最近、萌えから燃えに推移している事にも影響しているかもしれない。
形の無い抽象的な箱庭であれば、箱庭としての力が弱い。かといって具体的に過ぎると箱庭の精神性、神秘性が薄れ、やはり箱庭としての機能が薄れるのかもしれない。

  • 取り留めの無いまとめ 〜終焉幻想〜

おそらく最近の萌え作品は、このような萌えと箱庭の関係を、意識的無意識的どちらにしても、考慮に入れて作られているに違いない。読者=主人公をどんな場所に置くか。その活動範囲をどこまでにするか。そして、その精神的な拠り所は何にするか。萌えというものが、本来、現実よりもよりデリケートであり、守るべき精神によって作られるものである以上、それを守る事象=箱庭が明確であればあるほど、萌えとしての力は強くなる。
作者の神の手で運命的に、又は明確な設定として、萌えオタの柔い精神を守ってくれるのが箱庭だ。それは、あらゆる萌え作品に姿かたちを変えて存在しているだろう。
例えば、ハルヒの「SOS団」。例えば、ひだまりスケッチの「ひだまり荘」。らきすたでは、世間にオタク文化が認知されたという幻想を受けて「オタク文化」そのものが箱庭として設定されている。
KANONなども秀逸だ。「あの街」が箱庭なのは明らかだが、あの街を象徴するのが「あゆ」という少女。そして、あゆの想いを既に切り倒された「願いの樹」が現実化しているからこそ、奇跡が生まれる。樹木が不可思議な力を持ち、それが精神的なものであるが故に、その事実にたどり着くのに精神的な旅をしなければならない構造になっている。
Kanon ~Standard Edition~ 全年齢対象版
ところで、この文を書くに当たって過去の作品に思いをめぐらせていたら、どうしても一つの作品が思い起こされてきた。それは「劇場版うる星やつら4 ラム・ザ・フォーエバー」だ。
うる星がオタクの箱庭の元祖的なものである事は最初の方に書いたが、そのオタクの箱庭であったうる星の「終焉」ともいえるのが、この映画だ。実際には、原作者高橋留美子がとても素敵な真・最終回を作っているので、そちらを終りとすべきなのだろうが、うる星がオタク文化としてアニメで盛り上がり、それが「終った」と思えたのは劇場版4作目の方だったのだろう。
この物語では「箱庭の崩壊」がしつこいくらいに描かれている。それはもう、壮絶なくらいに。オタク達が自分達の楽園と信じた場所「うる星やつら」が終ってしまう。その事を悲しむファンの精神と同調し、物語はパラノイア的になるほど歪んだ構成になっている。そして奇妙な筋道の元、メタ作品的な納得において決着をつけている。オタク史に残ると言ってよいくらいの大奇作だ。
うる星において、箱庭の象徴は友引町という街だ。物語が長期化するにつれ、それは明確なものになっていた。そして、うる星4ではその友引町を更に象徴する存在が描かれる。それが「太郎桜」という大樹。それが切り倒された事により友引町自体も、文字通り崩壊していく。これは、箱庭の崩壊そのものだ。アニメうる星やつらという作品が終わりを迎える際、その視聴者側の精神的な箱庭の崩壊を、作品自体に塗り込めたかったのだろう。そして、記憶だけが残るとして、悲しみの納得をする。箱庭の概念が暴走し、視聴者の精神とシンクロし、作品世界にまで顕現している。とんでもない作品だ。
ここまで描くには、やはり箱庭の崩壊という事態が現実の世界にも無い限り無理だろう。現実の箱庭の崩壊とは、つまりオタク文化の衰退だ。実際、この頃のうる星はオンリーワンと言えるほどのエネルギーを持っていただろうし、事実その後のアニメ文化も一種の暗黒時代を迎えることにもなる。良く考えると、オタクブーム(アニメブームではない)の第一期は、うる星と共に始まり、うる星と共に終焉したのかもしれない。そう考えると、オタク的にとんでもなく偉大な作品だったといえる。
そして今、オタクブームは大丈夫だろうか。不況に強いオタク文化も、大きな衰退の兆しなどは見えていないだろうか。
今はまだ大丈夫かもしれない。しかし、その時が来たら、やはり作品の中で大樹が切り倒され、崩壊する箱庭が描かれるかもしれない。そんな事を夢想してしまった。
劇場版うる星やつら ラム・ザ・フォーエバー ハイビジョン・ニューマスター[DVD]