オタクの原風景である「ドラえもん時空」と「劇場版」

ところで、どうしてオタクは「永遠の楽園」に惹かれるのか。取りとめもなく考えてみた。
まあ、「永遠の楽園」が理想的な快楽装置の事なのだから当然なのだが、オタクがこの様な快楽に「慣らされる」過程もあったのでは無いかとか考えた。
そこで、真っ先に思いついたのが「ドラえもん」w。
これは四コマではないけれども、正に無限ループの代表的作品といえるだろう。他愛の無いエピソードが永遠に続く。そこで成長する事もなく、ただなんとなく非日常的な日常を、無限に楽しく過ごす作品。
四コマなら「サザエさん」の方が近いんじゃないのかという考えもあるだろうけど、オタクの場合、やはりドラえもんの方が親和性が強いだろう。
例えば、「けいおん」などを「ドラえもんだなあ」とか思いながら見ていた。「何時か何か出来る」とだらけて過ごす主人公が、一寸したきっかけで一寸した活躍をする話。「何時か何かが出来る」という想いは、娯楽に興じてだらけながらも、プライドを自分の秘めた可能性に求めるオタクの気持ちとリンクする。
唯は絶対音感とか持っていたりして案外ライトスタッフだったり。のび太のアヤトリみたいなものだ。バンド設立のエピソードからすれば、律がジャイアンで澪がスネオ、ムギがしずかちゃんだろうけど、性格からすれば澪がしずかちゃんで律はスネオ、紬が…だろうかw。もちろん、ドラえもんは憂だが。
…脱線した。
とにかく、子供の頃に見た「ドラえもん」の記憶。それが「永遠の楽園」の原型であり、オタクの原風景なのかもしれないとか、漠然と考えたり。
しかし、「ドラえもん」の無限ループ、つまり「ドラえもん時空」だけでは、「何時か何か出来る」という思いを秘めている子供(オタク)達を満足させる事は出来ない。
そこで登場するのが「劇場版」だ。
普段、万能の道具を使ってすら何も出来ない平凡な小学生が、劇場版では世界を救うヒーローになる。「何時か何か」が出来るのだ。
おそらくは、この「ドラえもん時空」と「劇場版」は、対になってこそ人の精神に健全に作用するのでは無いかと思う。カッコよく言ってみれば「ドラえもんのハレとケ」みたいなものか。(もちろん、劇場版がハレ)
だとすると、オタクの「永遠の楽園」が「ケ」だとして、「ハレ」はどこにいったのだろう。
おそらく、オタクは独自に「ハレ」の場を求めているに違いない。
例えば、イベント。昨今、オタクイベントが盛況なのは、「ドラえもん時空」的な「永遠の楽園」が余りに多く存在しているので、それを晴らす「ハレ」の場として求められているからかもしれない、とか。コミケとか、どんだけハレの場を求めるオタクが多いのかとか、思ってしまう。他にも、ネットで祭り上げ、とかもイベントの類だろう。
ただ・・・、「永遠の楽園」、そして「イベント」、どちらも同じ娯楽だったりするので、これで「ハレとケ」とか、オタクはそれらで心象風景全てを占めているとか、自堕落この上ない話だがw。